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著者: 曽野 綾子  
記事タイトル: 捨て魔の情熱  
コラム名: 私日記 第3回  
出版物名: VOICE  
出版社名: PHP研究社  
発行日: 2000/03  
※この記事は、著者とPHP研究所の許諾を得て転載したものです。
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  一九九九年十二月十三日
 お昼ご飯にモンゴル大使館にお招かれした。一九九九年六月、モンゴルヘ行った時、どこででも温かい歓迎を受けた。私は公的な日程より数日早くウランバートルヘ入って、モンゴル式テント、ゲルに泊めてもらった。ダワフーさんという有名な馬の調教師のお宅である。銀の食器はいっぱいあるし、いい馬はたくさんお持ちだし、お金持ちなのだが、ゲルは一間だから、夜は皆がいっしょに寝た。アルヒというモンゴル焼酎が皆好きで、朝から飲んでいた。さようならを言って、それでもう帰るのかなと思っていたら、またゲルの中に戻って飲みなおしている。
 クレルバタール特命全権大使が気をきかせて、懐かしのモンゴルメニューにしてくださった。アルヒ、餃子、モンゴル式羊スープのおうどん。お給仕をするボーイさんは日本人だろうと思っていたら、この人もモンゴルの人。当たり前の話なのだが、お互いモンゴリアン。顔で判断することができない。大使はモスクワで勉強されたが、お上手な日本語を話される。
 午後、厚生科学審議会に出席。
 
十二月十四日
 午前十時、日本財団で執行理事会。
 その後すぐ評議員会。会の後の食事の時がもっとも賛沢な時間。評議員の方たちから、最新ニュースと知識を教われるのである。
 午後三時から財団内の勉強会「海と港の懇談会」のため、日本通運株式会社代表取締役副社長・塚田時胖氏と海運事業部長・前堀達男氏においで頂く。私たちの財団は海洋・船舶の総合的な発展のためにも資金を出す任務を負っているのだから、職員が海と港に関する知識をある程度持っていなければならない。生まれて初めて「フォワダー」という日本語?を聞く。船を持たない輸送取り扱い業者のことをNVOCC(ノン・ヴェッセル・オペレーティング・コモン・キャリアー)というのだそうだが、その運送取り扱い人のことだという。アメリカと日本とのコンテナーの大きさの違いがもたらす不便の話は身にしみた。アメリカのコンテナーはどんどん大きくなり、今では九フィート六インチだという。日本ではこの高さのコンテナーを通すトンネルや橋が必ずしもあるとは言えない。
 四時、今年最後の記者会見。私はまだ素人気分が抜けなくて、「自分の事」に人を呼び集めるのは申し訳ないと毎回思ってしまう。
 今日は日本財団がヘレン・ケラー財団からヘレン・ケラー賞を受けることも報告する。日本財団は過去にヘレン・ケラー財団にオンコセルカ症対策のために二百万ドルを拠出して来た。オンコセルカというのは「川辺で発生する蚋を媒介にして感染する寄生虫(フィラリア、回旋糸状虫)」によって失明する病気である。寄生虫オンコセルカ・ヴォルヴルスが人体に侵入して皮膚全体を移動しながら生存し、ミクロフィラリア(幼虫)を生むが、この幼虫に対する免疫反応によって失明や皮膚病を引き起こす。
 この病気はありがたいことに治療薬がわかっている。ただし薬は、ミクロフィラリアには効くが成虫には効力がないため、感染がわかったら、体内に成虫がいる間、十年以上、一年に一度薬を飲まなければならない。
 一年に一度なんて簡単なもんだ、と日本人は思う。しかし汚染地のアフリカなどではそう簡単なことではない。人々は自分の生年月日を知らない人も多い。四季がない上、カレンダーなどというものを持っていないから、いつを区切りに一粒の薬を飲んだらいいのかさっぱりわからないのだ。
 このカレンダーについてはいつもおかしな話を思いだす。アフリカの田舎の人たちにカレンダーをあげると、人々はすぐ一枚ずつ人に分けてしまう。妹には三月の分を、従兄には八月の分をというやり方だ。カレンダーは絵だと思っている。だから翌年になっても貴重な壁の装飾は決して捨てない。
 そういう土地で、ヘレン・ケラー財団は、人を出し、指導員を養成し、薬を配ってくれた。私たちは去年霞が関の中央官庁とマスコミの人たちと共に、アフリカのブルキナファソのボボ・デュラッソに近い土地で、一村の三分の一がこの病気のために失明したので、やむなく村を数キロ川から離れた土地に移動させたという土地へ入った。
 一人の四十代の男性が、通訳を介してだが、十三歳の時に発病して以来の病歴を語ってくれた。盲目の彼には、仕事もない。自分専用のテープレコーダーやラジオも持っていなかった。一日をただ木陰に坐って生きている。話を聞き終わった時、私は胸を打たれ、傍にいた数人の記者たちに言った。
「こちらがお話だけ聞いて、そのままじゃ少し人情が通じませんよね。お礼にこの方のために歌を歌いましょうか」
 実は私は声が悪いから、世のため人のために歌は歌わないことにしているのである。カラオケなど歌ったこともない。しかし私たちはそこで「夕やけこやけの赤トンボ」を合唱した。
 
十二月十五日
 十時、建設省の青山俊樹氏と対談。
 十一時、日本財団理事会。
 午後二時半、三枝成彰氏。私が歌詞を書いた『レクイエム』が新年早々関西で再演される由。私はその頃、日本にいないので残念である。
 四時半、『静岡新聞』の新春座談会。石川知事から「お茶の粉砕々」というお茶を粉にして飲む機械を頂く。早速家に帰ってやってみると、挽き具合もいいし、すっかり好きになる。緑茶何杯かと蜜柑二個とで、健康は保たれる由。日本中が病気をしないのはいいけれど、皆が長生きしたらどうするのだろう、とこのごろ反射的に考える癖がついた。
 
十二月十六日、十七日、十八日
 『狂王ヘロデ』と『陸影を見ず』の二本の連載をそれぞれ文芸雑誌『すばる』と『文學界』に書く、十二月は締め切りが繰り上がるので、魔の月だと感じている。少し恥ずかしいのだが、来年はやはり詩を書きたい。
 
十二月十九日
 毎年行われる「東京ふれあいマラソン99神宮外苑ロードレース」の日である。健常者も、車椅子ランナーも、知的障害者も、いっしょに走る。障害者百二十五人を含めて総計三千九十二人が参加する。
 毎年、どうしてこんなに天気がいいのだろう、と思うほど晴れるので神さまに感謝。ゴールに入って来る人の中に、見慣れた顔がある。財団の職員である。
 大きな息子さんと、二人で走っているお母さんは、もちろんそんなに若くはない。しかしゴールに入った時、息も切らせていらっしゃらない。ほんの数十秒、国立競技場のトラックの上で立ったまま明るく身の上話をするなんてことが、この世であるとは信じられない。息子さんが知恵遅れなので、伴走者として参加したのだという。そんなふうには全く見えない。すばらしいお母さん!
 今年から全員に、参加メダルが贈られることになった。ずっしりと重くて、私も欲しいくらいだけれど、決してくれない。走った人以外で貰えたのは、盲人ランナーの励ましのため出演してくれた石川県の手取亢龍太鼓保存会、神奈川県の鼓吹、国学院大学体育連合会吹奏楽部の三組の「音楽隊」の人たちだけ。
 帰りに東大病院に入院中のペルーの加藤正美神父を見舞う。痩せてもいらっしゃらないし、お顔の色もよく、これなら手術もうまく行くに違いない。
 
十二月二十一日
 十時、科学技術庁で生命倫理委員会。
 三時、司法制度改革審議会。
 その間にお客さま数組あって、六時、三浦朱門が文化功労者になったお祝いを日本財団の笹川理事長、尾形理事、秘書課長の星野さんがしてくださるというので、うちの秘書の堀川省子さんと私もお相伴にあずかり、美味しいふかひれのお料理を頂く。
 
十二月二十二日
 自由が丘のアエンで、秋山ちえ子さんと二人だけで、思いがけない夕食。人生で人と会うことの尊さもこのごろしみじみ思うようになった。私は大勢の人の集まる所やバーティーを恐れて、避け続けて暮らして来たけれど、すばらしい方と、静かな語らいをたくさん経験した。秋山さんはお年をとられてから、家中にたくさん鏡をおいて、姿勢を正して生きていらっしゃるという。美しさというものは、一朝一夕にはできないのだ。
 
十二月二十三日
 かたづけ。とにかく物を捨てることに、このごろ情熱を感じている。死ぬまでにほんとうは家を空にしておきたい。できないことだろうけれど。
 義姉、小杉瑪里とちょっとしたお昼ご飯。朱門、皇居へ天皇陛下のお誕生日のお祝い。
 
十二月二十四日
 シンガポールヘ向かう。年末になってへとへとになった感じ。でも飛行機の中でゲラ直し一冊分済ませる。
 
十二月二十七日
 夜、陳勢子さんに誘ってもらって、シンガポールでは珍しいオペラを見に行く。近く新しいオペラハウスもできるそうだが、五十年前から、勢子さんの願いはこの町でオペラが見られるようになることだったという。
 演目はヨハン・シュトラウスの『蝙蝠』で英語と中国語のスーパータイトルが出る。
 
十二月三十一日
 ここではY2K問題など、ほとんど話題になっていない。オーチャード路の道に飲料水のペットボトルが積み上げてあるので、やはりここでもY2K懸念で水を買い溜めする人がいるのかと思ったら、何のことはない。夕方からここに繰り出して、あちこちでカウントダウンをする人たちが、喉が乾くので買うだろうという商売である。水の隣がコーラやジュース。こちらも山積み。
 私の二十世紀には、感謝してもしきれないほどのことと、悲しいことがたくさんあった。どちらも贈り物と思える。その分だけ人生の味が濃くなったのだから。
 
二〇〇〇年一月一日
 わずかに持って来たお餅でお雑煮を作り、昆布巻き、かずのこ、などを並べて型ばかりのお正月。
 毎年、今年は何をしようという決心などしたことがないのは、決心しても続かないし、予測してもその通りになったことがないからだ。
 ただ強いて心に決めていることと言えば、私が暮らしている東京の家の毎日の生活を、できるだけ楽しくしようということ。最近、こういうことは大変大切なことだ、と思えて来た。人が生きる時間は決まっている。その時間が楽しいか、インインメツメツかで、生きていることの意味が違う。私たちの生活は小さな幸福に支えられているわけだから、ほんのちょっと楽しくしたい。料理の手を抜かず(とは言ってもおかずは質素なものなのだけれど)、うちの中をよく片づけて、花に水をやろう。そしてできるだけ機嫌よく生きて、二十二歳の猫にも長生きをさせよう。白内障が出ているのがかわいそうだが。
「怠け者の節句働き」みたいだけれど、今日から原稿を書く。
 
一月二日
 ブキテマにお住まいの中国医ゴイ先生の所へ行って指圧。三十代に階段から滑り落ちて背中で階段を下りたあたりが、今でもよくない。チャイナ・タウンで中国蕎麦を買う。店のおばさん「全部輸入もの」と言って威張っている。だから値段も高い、ということなのだ。シンガポールはもともと卵以外は食料を生産していないのだから、すべて輸入もののはずだが、このおばさんが言うのは、「中国産ではない」ということ。おばさんは香港は「外国」だと考えていることがわかって、話はいよいよややこしくなる。
 
一月五日
 朝の便で帰国。
 空港の本屋で、『ヒットラーの教皇??ピオ十二世秘史』を買う。ローマ教皇ピオ十二世は、毀誉褒貶の多い教皇であった。ナチスの暴虐に対して、何故人道的な抗議をしなかったのだ、という非難がある。それに対して、教皇は抗議をしたのだが、その度にナチスは面当てのように大量殺戮を繰り返した。それゆえに、教皇はどのような非難を浴びようと、ユダヤ人を助けるためにナチスに抗議することをしなくなったのだ、という説もある。
 誰にも真相はわからない。ただピオ十二世に神があってほんとうによかったと思う。そうでなければ、全世界から人道の敵と言われて生きることは辛さを通り越して、普通の人になら耐えられないことだったろう。神があれば、どんなに悲しみながらでも、最終的な心の慰めがあって、自殺しなくて済むような気がする。
 
一月六日
 東京ビッグサイト多目的広場で東京消防出初式。人気の江戸火消しも出るが「め」組は見えない。温かい日で子供さんを連れた人で賑わう。放水の水ですばらしい虹を見た、という人もいたが、私の席からは見えなかった。
 災害の時に、日本の消防は海外出動をして大きな成果を上げているが、その出動のやり方について関係者と立話。受入れ準備はJICA(国際協力事業団)がやることになっているといわれるが、「人を当てにしてはいけません」と老婆心そのもののようないやなことを言う。
 JICAはやってくれていても、どこの国でも日本人ほど組織的ではないのだ。どたん場になって相手が何も手配してくれていない、ということはおおありなのだから、災害地に着いたら、その日から寝るべき地面さえもらえば、水も食料も何もかも自前で何とかする方途を携えて乗り込まねばならない。
 
一月七日
 終日、予算説明。私のかつての生活にはなかったこと。馴れたと言うべきか、まだ少し抵抗があると言うべきか。
  
一月八日
 朱門の旧制高知高校以来の親友の阪田寛夫氏と夫人の豊さんが泊まりがけで来てくださる。朱門がお正月に急に「阪田とゆっくり話がしたいなあ」と言ったのがきっかけ。
 豊さんは病気をされたというが、足が少し不自由なだけで、お元気で明るい。かねがね阪田家は昔の宣教師たちが開いた野尻湖に別荘があって行かれると聞いていたが、その野尻湖の話を豊さんから聞いていると、うっとりするほどおもしろい。
 私が書いた詩を阪田さんに見て頂こうかと思ったが、大家にお見せするのは気が引けて、やっぱりやめてしまった。
 
一月十日
 朱門の誕生日が一月十二日。姉の小杉瑪里の誕生日が一月十六日。うちの奥さん役の松尾一子さんも十六日。それで今日は三人いっしょの誕生日の夕食をする。朱門はこういう時、「合同慰霊祭をする」という。まあ祝ってもらうのだから、慰霊ではあるけれど、ほんとうに我が家の表現はいつもどこか狂っている。
 私の友人の石倉瑩子さんも加わって、鶏の水炊鍋。木耳、竹の内側に生えている網みたいな部分、魚の浮き袋も入れる。いずれも中国の食材。魚の浮き袋は、私の大好物。竹の中皮も正式には何というのかわからないが、いい味を吸い取る。私は「ストッキング」と呼んでいる。
 バースデー・ケーキは朱門が買って来た。ローソク(三人分だから)三本くださいと言ったら、店の人が変な顔をしたという。この「おじいさん」が三歳か? 孫の誕生日と思ってくれたでしょう、と皆笑う。
  
一月十一日、十二日
 十一日の午前中、ニューヨークから、ヘレン・ケラー財団のドナート氏が来訪。二月十日のヘレン・ケラー賞の授賞式の打合せをする。ニューヨークは零下二十度だそうだ。
 NHKの方たちとの番組打合せは、七月開始の聖書の世界について。私ごとき素人が、聖書の話などしていいかしら、とまだ心の中で迷っている。イエスの時代には、各地に「ニセ教師」がうじゃうじゃ現れたそうな。私もその一人、という感じ。
 それ以外、二日間、ずっと各部からの予算説明。風邪気味なので、風邪薬を飲んで出社したせいか猛烈な眠さ。
 財団の会議の空気は大変自由でいいのだ。笑えるし、冗談も出る。だから眠いはずはない。訳を話して謝って飴を食べることにした。甘いものの嫌いな私が十個くらい食べたら、今度は少し胸が悪くなって来た。
 
一月十三日
 朱門、日韓文化交流の会議のためソウルヘ。出がけに「向こうは寒いから手袋がいるでしょう」と言いながら、悪妻だから手袋の在りかがすぐにはわからない。「今探しますから」と言ったのだが、「どっちみち、空港とホテルにいるだけ。外になんか出ないから」と言ってでかけてしまった。
 
一月十四日、十五日、十六日
 書斎の戸棚の片づけを秘書の堀川さん、岡部さんにしてもらいながら、原稿を書く。二十三日からのインドの調査が迫っているので、書置きをしなければならない。ゴアやムンバイ(ボンベイ)のホテルには電話もファックスもあることにはなっているが、通じると思ってでかけることはできない。
 古い写真をまた一山棄てる。CDも何十枚と棄てる。死ぬまでにどんどん棄てよう。納戸も整理して空き間だらけになった。大切なものは思い出だけ、という実感がある。
 朱門がソウルにいるので、私が代わって日本民謡協会の新年祝賀会に出席。朱門が文化功労者になったお祝いを、当人に内緒で、その日にしてくださるつもりだったという。当人は知らないので日韓の会議に出かけてしまった。私が代役でこんなすばらしい「びっくりパーティー」をして頂いたことのお礼を申し上げる。こんなにたくさんの和服の女性を一堂に見られるのは役得。
 朱門は夜帰国。にこにこして「明日、焼肉とキムチが届くぞ」と言う。ペルーの加藤神父、手術が大変うまく行って、元気なお顔でご飯を食べに来てくださった。リマに日系の老人ホームを作る計画を伺う。
 
一月十八日
 午前中、執行理事会。午後、総理官邸で司法制度改革審議会。その後、帝国ホテルへ。朝日新聞社百二十周年祝賀会。庭で採れたビーツでボルシチを作ってみる。初めてにしては上出来。
 
一月二十日
 小泉晴美さんという方より、十二月に亡くなられた兄上が、遺言を公正証書にして、私たちがやっている海外邦人宣教者活動援助後援会に一千万円を残して行ってくださったことを知らされる。
 生きていられるうちにお会いしたかった。運営委員の中の黒一点の高橋真則さんは公認会計士だから、そちらと連絡を取ってくださるよう、それも、お疲れが充分に取れてからにしてください、とファックスを打つ。
 



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