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私は二十五年間、海外邦人宣教者活動援助後援会という小さなNGOで外国の貧しい人たちを手助けして来たが、その会の運命だけは心配したことがない。いつもいつも必ず寄付が集まると思っているのではない。しかし私たちの働きが必要なうちは会は存在し、必要がなくなった時は消滅すればいいのだ、と自然に考えているからである。 一年前に私はハイチにいた。日本人の修道女、本郷幸子さんが、首都からかなり離れた土地に一人で入って、私たちが送ったお金も使って貧しい子供たちの面倒を見ていたので、そこを訪ねたのである。 私が修道院の客間のソファに座っていた時だった。カナダの或るNGOのグループから一通の手紙がシスター宛に届いたのである。内容は、今まで年間約五万円ほどのお金を子供たちの米代として送っていたが、資金が続かなくなったので今年からは送ることができません、という通知だった。 その手紙はりっぱなレター・ヘッドの印刷された便箋に書かれていた。私も海外邦人宣教者活動援助後援会を作った時、ロゴ入りの便箋を作ることも考えたことがあったが、そのお金さえ倹約してやめてしまった。レター・ヘッドがないと信用してくれない所とは関係を持つ必要がないという感じでもあった。 私はシスター・本郷に、運営委員会に掛けなければ、ほんとうに承認はできませんが、多分、私たちのグループが五万円の米代を肩代わりするでしょう、と言った。会が承認しなくても、一年に五万円なら私一人でも送ることができそうな額であった。 このお米の件は、私の帰国後の運営委員会で承認され、シスターは続けて子供たちにご飯を食べさせているはずである。 私たちのやっているこういう組織が、もし終わるべき運命になったら、後どうなるのだろう、などと思い上がった心配はせずに、気楽に幕を閉じればいいのである。 しかしもし継続が必要なら、必ずそこに思いがけない人が偶然のようにい合わせて後を引き受けるようになる。シスターがカナダからの手紙を開けた時、私が隣の椅子に座っていたように、仕事は必ず引き継がれるのである。 そもそもハイチに行く日を決めたのも、私ではない。アフリカの食料問題の会議にワシントンへ行った帰りに、私はハイチに入る日程を組んだ。会議の日取りは、カーター元大統領の都合が強力に考慮されていたはずである。私は以前東京で、元神父でハイチの大統領でもあったアリスティド氏にも会っていた。まだペルーで人質事件など起こるとは想像もしない時だったが、元大統領は私たちの地方入りを心配して私服の護衛をつけてくれた。 すべての運命はどこかで集結し、必要なら使われて行く。しかし人間が小賢しく計画したって、なかなかこううまくは行かない。運命だか神の配慮だかは、実に「劇的」以上のものである。
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