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著者: 歌川 令三  
記事タイトル: 海の大国・インドネシア記(5) ブンガワンソロ清き流れ……  
コラム名: 渡る世界には鬼もいる   
出版物名: 財界  
出版社名: 財界  
発行日: 2000/09/26  
※この記事は、著者と財界の許諾を得て転載したものです。
財界に無断で複製、翻案、送信、頒布するなど財界の著作権を侵害する一切の行為は禁止されています。  
  元「軍国少年」の思い出
 中部ジャワの古都、ソロの界わいは、時がゆっくりと流れていた。時計の針の動く速さはこの地球上どこでも同じであることは言うまでもない。だが旅をすると場所によって、そんな実感にとらわれることがある。周囲のたたずまいが、旅人をしてそう思わせるのであろう。
 この町を訪れたのは、二〇〇〇年二月、熱帯モンスーン気候の雨期がそろそろ終る頃であった。「そう。その通りです。私は一九八四年、雨期の盛りにこの町のはずれ、昔はバティック業で盛えたラウェアン近くのゲストハウスに長期滞在したことがある。その頃、思ったのだが、ソロと、ジャカルタでは、たしかに時間は違う速度で流れていた」。同行の白石隆・京大教授が、そう相づちを打った。
「ソロ。人口約五十万人の古都。中部ジャワ第二の町。正式名称はスラカルタ(Sura Karta)」と持参の旅行案内書にはある。古都とはいっても実は十八世紀半ばに、マタラム王国のスラカルタ家がこの地を王都としたもので、オランダが十七世紀初め西ジャワに創設したバタビア(ジャカルタの前身)より新しい。
 しかし古都としての風格は備えている。例えばこの都市の中心にあるマンクヌガラ宮は、ジャワの伝統宮廷建築の粋を集めた建造物である。天井一杯に、ヒンドゥー教の呪文を表現した八種八色のバティック文様が書かれていた。
 初めて訪れたこの町と私を結びつけるたったひとつの記憶の糸は、戦中、戦後の日本で流行った『ブンガワンソロ』という名の歌である。ソロはジャワ島最長の大河である「Bengawan Solo=ソロの流れ」の西岸に展開する交通の要所でもある。「ブンガワンソロ、果てしなき、清き流れに今日も祈らん。ブンガワンソロ、夢多き……」。たしかそんな歌詞であったように記憶している。私よりちょっと若い同行の草野靖夫さん(元毎日新聞ジャカルタ支局長)もこの歌には特別の感慨があるという。
「ブンガワンソロ、リワヤムーイニー……」インドネシア語で口ずさんだ。「戦後、NHKの歌のおばさんになった松田トシさん憶えてますか。戦時中、日本占領下のこの地に慰問団として派遣されたとき、彼女は歌好きの日本兵が口ずさんでいる現地人作曲のポップソングに心を打たれ、日本に広めたらしい」。草野さんの解説したブンガワンソロの由来である。戦時中、いつもラジオから流れる勇壮だがいささか単調な軍歌のオンパレードの中で、この歌や『南の花嫁さん』など、甘美なインドネシアメロディーに小さな胸をときめかせた当時の軍国少年は私や草野さんだけではあるまい。
「ブンガワンソロにぜひ行ってほしい」。現地で雇った車の運転手に注文したら、「とてもよい場所がある」と言う。ソロの市街からインドネシア第二の商業都市スラバヤに通ずる国道を二十分ほど走ったら大きな橋が二本かかっている大河のほとりに出た。私の「Bengawan Solo」との“ご対面”の地である。「ここに何回か日本人をつれて来たことがある」とジャワ人の運転手。多分、私と同じ世代の人たちだろう。
 ブンガワン。「雅やか」という意味もあるという。だが「美しき青きソロ川」と言いたいところだったが流れはカフェ・オレ色であった。この地点の川幅は五十メートはある。雨期のソロ川は濁流である。水量はかなり多い。歌の文句の情緒とはちょっと異なる。もっとのんびりした田園風景を予想していたのだが……。でも、気を取り直してメモ帳にペン画のスケッチを一枚画いた。私は海外に出る時、原則としてカメラを持たないことにしている。写真を撮ってしまえば、「ハイ、それまでヨ」で、その場所を文章で感じることがおろそかになるような気がしているからだ。
 スケッチならば、印象をしっかりと頭に刻みこむことができる。私のスケッチ画には二本の橋がある。上流の一本は、年代物の鉄橋でオランダが建設したものだという。もう二本は片道二車線の幹線で、多分、日本の賠償でつくったものだろう。手前には椰子の並木がある。橋げたに激流がうずまいている。
 
“本物のサムライ”今村均大将
 この歌の歌詞の原語はおよそ次のような意味だそうだ。
「ソロの流れは、大昔から人々の心の故郷だ。乾期には水は細く、雨期には満々と水をたたえる。遠い山から、曲がりくねってこの古都ソロに入り、そして、はるか大海原へと流れる。この川を商人が舟で行き交う」。この日の流れは速く、舟の往来はなかった。
 第二次大戦中、ジャワを占領した第十六軍の日本兵たちは、この歌に魅せられたという。勇壮な軍歌は国家がテーマであって人々の暮らしはない。だからこそ、兵士たちはソロの自然と入々の心の交流を歌ったこのインドネシアメロディーに心を奪われ、戦地から遥るか故郷を思ったのであろう。この兵たちの頂点に立つ第十六軍司令官、今村均大将は人格高潔の立派な将軍であったらしい。
「今村大将は、当時、インドネシア独立の選択肢として、日本との協力を選んだスカルノと会見した。席上、今村氏は、“インドネシアが完全に独立するのか、日本の保護国として自治権を付与されるのか、自分は派遣軍の一司令官であり、いかなる約束もできない”とはっきり言った。彼に対し、いい加減な宣撫工作をしなかったのだが、そこがかえってスカルノの信頼を勝ちとる結果となった」。同行のインドネシア学者、白石教授が、日本のジャワ占領時代をそう解説する。スカルノは「今村は本物のサムライ」と信頼したという。
 
首なし死体のソロ川
 ブンガワン・ソロの川岸で聞いたインドネシア独立前夜の秘話である。だが、白石さんにとって「ブンガワン・ソロ」と聞いて、まず第一に連想することは私や同行の草野さんのように、「ジャワの日本兵」ではないらしい。「ソロ川」と聞くと、「スカルノから政権を奪取したスハルトの共産党狩りを、まず連想する」と言うのだ。ソロに出向く途中、中部ジャワの拠点都市、ジョクジャカルタのガジャマダ大学を訪問した。大学の社会科学研究所の図書館での私の小さな発見がある。百冊ほどしかない蔵書から、一冊の本を取り出してみたら、なんと『The rise of Indonesian Communism』(インドネシアにおける共産党の台頭、コーネル大学出版)だった。
 数少ない蔵書とはいえ、何たる偶然の“いたずら”なのか。白石さんは、言う。「コーネル大学は私が、インドネシアについて長年、教鞭をとった大学。懐かしい本です。私はソロ川に来ると、“一九六五年九月三十日の、大統領親衛隊のウントン中佐によるクーデターの元凶は共産党である”とするスハルトの共産党弾圧を思い起こす」と。スハルトの率いる陸軍によって、半年間で約六十万人の共産党員が殺害され、アジアで一番古い共産党はこうして物理的に解体された。
「中・東部ジャワでは、とくに多くの人が殺害され、ソロ川には毎日、首のない死体が捨てられ、下流へと流れていった。人々は一時期、ソロ川の魚を食べるのをやめてしまった」。ソロ地区で、農家に泊まり込み、実地調査の経験をもつ白石さんが、現地の人々から集めた実話である。「村々では、あの木の下、この墓地の前、あの橋のたもとといった殺人現場に、死の記憶と恐怖が、村人の脳裏に刻印されていた」と白石さんは言う。
 私にとって一度は訪れてみたかったロマンの里ブンガワン・ソロは、白石さんにとっては、凄惨なる権力闘争の歴史上の現実である。清き流れは、彼にとっては、血塗られた「赤い河」であったのだ。
 帰路、ソロから空港のあるジョクジャカルタまで、あえて鉄道を利用することにした。「庶民の生活に触れられる」という私の主張を、白石、草野両氏が同意してくれた。インドネシアの鉄道は、実は日本の新橋?横浜間の鉄道誕生より三年早い。一八七〇年、オランダが、中部ジャワの砂糖とタバコを、港に運搬するために、ソロからジャワ海に面したスマラン市まで鉄道を建設したのである。この鉄道はなぜか、日本の在来線と線路のゲージが同じで、日本製のディーゼル列車が走っていた。二十年前、日本のローカル線を走っていた中古の車両である。
 ソロ市の中央駅、パラパンから急行列車に乗ったのだが、時刻表より十五分早く出発した。けげんに思った白石さんが、乗客に質したところ逆方向に行く列車であった。白石さんは、「大変だ。飛び降りろ」と叫んで、動きはじめた列車からホームにジャンプした。インドネシアの列車の不思議は、日本のようにドアが閉まってから走るのではなくて、走ってからドアが閉まることだ。私は、列車のスピードと危険をとっさに計算して車内にとどまった。だが、十五分後に白石さんと再会し、大笑いした。種を明かせば、この列車は次の駅の折り返しで、再びパラパンに戻ったのである。
 ちょっと危ない話ではあるが、そういうハプニングも旅の面白さではある。
 



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