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ダニューブ・デルタに行く ルーマニアの首都ブカレスト。旅のつれづれに、ホテルのロビーに置いてあるこの国の観光業者作成の写真集『BUCHAREST』をめくってみた。「かつて小パリとして知られたブカレスト。一四五九年、トランシルバニアの領主、ウラド・テペス公によって建設された都市で、“喜びの町”という意味である。小パリは、今日では、もっともっと活気のみなぎる都市に変容した」とある。 はたして、そうなのか? この街の第一印象は暗い。街角に見る人々には笑いがない。気のせいかもしれぬが、皆んな追い詰められたような表情をしている。そういえば都市の開祖、テペス公のニックネームは、ドラキュラ(悪鬼の息子)であった。いつも黒装束をまとい、日暮れに起き、夜明けに眠る。圧政の中で人民は、彼をVAMPIRE(吸血鬼)と恐れた。私の見たブカレストの暗さはそのせいではない。チャウシェスクの独裁時代のいやな思い出から、まだこの街が抜け出せないからなのだろう。 ブカレストを脱出するに限る。そう思ったのである。幸いなことに旅行業者が、あらかじめセットした四日間のブカレスト滞在が、半分に短縮された。この街を訪れた目的は、隣国のモルドバ共和国のビザを取得するためだった。旧ソ連のこの国のビザを取るには三日かかると聞いていたのだが、ブカレストのモルドバ大使館は、一日で発給してくれた。ブカレストで形成された芳しくない印象のみでルーマニアを語ってはならぬ。田舎に出かけて見たらどうか??と勧められたのである。 ブカレストの環境連盟会長で工学博士のチョボタ氏らとともに、ダニューブ・デルタに出発した。レンタカーで、六時間の行程である。黒海沿岸に近いTULCEA(トルチア)をめざした。 ダニューブ・デルタ。面積五千八百平方キロ。といってもぴんとこないが、東京都の三倍はある巨大な湿地帯で北はウクライナとの国境だ。「ヨーロッパで一番若い土地だ」とチョボタ氏がいう。「エッ。何が若いの」。「若いというのは地理学的な意味だ」と彼は解説する。 ここは、ダニューブ(ドナウ)川の終着地である。ダニューブは、ドイツの“黒い森”からアルプスの雪水を集めて始まり、ヨーロッパを東西に十カ国を二千八百六十キロ流れ、途中ウィーンでは「美しき青きドナウ」などと呼ばれたりするが、最後にルーマニアで黒海に注ぐ。ダニューブ川は全ヨーロッパの水の八%と、ついでに一秒間に二トンの土砂を運ぶ。だから一年に四十メートずつ“新しい領土”がルーマニアに誕生する。 「だから、ダニューブ三角地帯は、ヨーロッパで一番若い土地なのさ」とチョボタ氏。 道中は肥沃な穀倉地帯である。八月も下旬だというのに三十度を超す暑さだ。麦の苅り入れはとうに終わっている。街道の両脇は、一面黄金色。麦秋ではなく、トウモロコシとヒマワリの秋なのだ。分離帯がなく、上等ともいえない舖装の道をぶっ飛ばすので、道中、二回も大事故の現場に遭遇して肝をひやす。徐行するときは町か、村落である。道路わきには青空市場がある。雑貨や魚、肉、野菜、果物が盛りだくさんに積んであり、市場に群がる小型トラックや馬車を縫って、警笛を鳴らしてドライブする。 ダニューブ川の水郷地帯に近づくと並木が目立つ。「PLOPI」という木だという。「モスクワにも同じ木があるが、トーポリといっていた」と言ったら、「ロシア語なんか忘れたよ!」とチョボタ氏。ルーマニア人はロシア嫌いだ。彼は私たちとの会話を円滑にするために『ルーマニア?英語辞典』を携行して旅に参加した。辞典によれば「PLOPI」の英語名は「POPLAR」であった。 トルチアに着く。ダニューブ・デルタの玄関口、人口二十九万の貿易と工業の中核都市である。古くからダニューブ川と黒海を結ぶ貿易港として栄えた。現地の旅行エージェントの女社長(四十歳前のなかなかの美人で少し英語を話す)の話では、紀元前一世紀にはギリシャの植民都市があり、このあとローマ、オスマントルコと支配者が交代したという。彼女の説明をさえぎって、トイレのありかを聞いた(ルーマニア料理は口に合わないとはいわぬが、油濃くて日本人の腹に合わないことは確かだ)。 「このビルのトイレはお勧めできない。もし緊急でないなら乗船するまで我慢しなさい。船は清潔よ」と言われ、蒼い顔が、ますます蒼白になった。乗客はわれわれ一行の四人だけで、乗組員三人の小型クルーザーをチャーターした。現金の持ち合わせが心配になったが、一泊二日の旅で四人分で二百九十ドルと聞いてほっとした。ブカレストの名ばかりの三つ星ホテルで一人で一泊百五十ドルも取られたことを思えば超格安である。
満天の星と神学談議 ダニューブ川は、トルチアのやや上流から三つに分裂して蛇行しながら黒海に注ぐ。三本の川の真ん中のスリナ川を、仮泊地「レバダ」(白鳥)をめざして、五十五キロを下る。ここで錨をおろしたのは深夜であった。甲板に寝そべりチョボタ氏と語り合う。 満天に星。東京に空がなくなって久しいが、はるかバルカンの地で眺めた夜空の星は、学生のころ、連れていかれたプラネタリウムのようであった。北斗七星が、くっきり見える。この星座の一番下の柄杓の部分を六倍に延長すると、北極星があった。その反対側には、一番明るい星、シリウスが輝いている。天の川まではっきりと目視できる。星が眩しい。「ザブン。ドボン」。不規則な音が、聞こえる。「魚かね」と私。「人間かもしれんよ。いや、神だよ。神がわれわれに遣わした巨大な魚だ」と彼。「お前は神を信ずるか」とチョボタ氏が真顔になった。キリスト教やイスラム圏を旅すると、ごくたまにではあるがこの種の質問に遭遇することがある。もし、「神を信じない」と一言ったら、それで心の交流は切れてしまうのが常だ。だから私は「I DON’T KNOW」と答えることにしている。「ウン。お前は正直だ。俺にもわからんが、とにかく信ずることにしている。神が人間を創ったのか、人間が神を創ったのか、それはわからん。その点はお前のいうとおりだ。だがどちらにせよ、心の拠りどころとして神は必要だと思わんか」と彼はいう。 この満天の星はだれが創造したのか??それを考えているうちに神が存在するような気にもなる。バルカンの星空にはそういう魔力があった。午前六時ちょうど。川面の右側には霧がたなびき草原と木々が墨絵のように浮かび上がり、左側から太陽が昇る。国連の世界遺産に指定された「MILA23」と数千羽のペリカンの生息する「幸運の湖」をめざして、船は支流に入った。 あと二十五キロも下れば黒海の入り口、スリナだが、船は草原の中に点在する湖と動く砂丘を求めて、網の目のような自然の水路をジグザグに蛇行して、水郷の最深部に入っていった。「MILA23」には、土と草とポプラの木で造った東方正教の教会があった。百年前、ツアーが南下したとき連れてきた少数のスラブ人がここに住んでいる。魚と、ハチミツとニワトリと果物が生産物だ。一日一便しかない定期船の運ぶパンとバターと交換をして生計をたてている。
“船上の垂訓” 昼前、ペリカンの湖に到着する。この付近は、ルーマニア人たちのキャンプ場でもある。船外エンジンのついた小舟をレンタルして、一日かけてここまでやってくるのだという。夏休みでやってきたブカレストの住民が多い。テント生活の家族のグループが、人懐かしそうに、われわれの船に手を振ってくれる。その表情はブカレストの街角で遭った人々とは全く別人である。「これが、ルーマニア人の素顔だよ」チョボタ氏がいう。 漁民のオジサンが、一人小舟で近づき、魚三匹とカメ一匹、そしてザリガニをくれた、「代わりにたばこをくれ」という。「スパシーバ。ダスビダニャ(有難う。サヨナラ)」。ロシア語だった。彼は、ウクライナ系だろう、舟が見えなくなるまで、手を振っていた。「平和だよね。ダニューブ・デルタは……」といったら「ウン。バルカンの国際政治さえ、なければね」とチョボタ氏。 ダニューブ・デルタは、黒海からルーマニアを通り、ライン川経由で最後にはオランダのアムステルダムに抜ける重要な水路の起点である。だからルーマニア経済の生命線でもある。「一九九一年には、ウクライナ船が座礁して、水路を半分ふさいでしまった。おかげで、以前は一万五千トン級の船が通過していたが、今では七千トンまでだ。ルーマニア経済は大損害だ」とチョボタ氏は言うのだ。ウクライナはいまだに座礁した船をかたづけていない。「過失ではなく、わざと封鎖した」という説もブカレストにはあるという。一見のどかなダニューブ・デルタも、隣国同士は仲が悪い。それがバルカンの地政学の現実である。隣の不幸は自分の幸せ、のゼロサム的関係のようだ。だから外交の要諦は遠交近攻、三国志の世界である。 「バルカンは、そういうところなんだ。だから、俺の好きな国は、スウェーデン、アルゼンチン、そして君たちの国である日本。みんな遠い国さ」。これがオクタビアン・チョボタ氏のダニューブ・デルタにおける“船上の垂訓”である。
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