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一九九七年六月二日 ここのところ、書庫の整理を手伝ってもらっているので、自分は放りっ放しというわけにもいかず、よく書庫を見に行く。命のあるうちにこのうちのどれだけに眼を通せるか、使えるか、と思うと虚しくなるが、それでもけっこういい本が集まっていた。 ロンドンで買った本には思い出が多い。午前と午後と二時間ずつくらい本屋の棚の前に立っていると、首がいつのまにか右に傾いている。立ててある横文宇の本の背表紙の題を、私は首を傾けないと読めない。イギリス人は、どうして首をまっすぐにしたまま横に並んでいる字を読めるんだろう、と不思議である。 こういう姿勢で、数時間立っていると、やがて微かな吐き気がして来る。疲労の限界、引き上げの合図である。 六月三日 日本財団で執行理事会。 先日ロシアヘ、笹川陽平理事長ほか二人が、ポスト・エリツィンと言われるレベジ氏に会いに行った。 理事長の話では、我々は民間の組織なので、今まで外務省や日本大使館にお世話にならず、分を心得て独自のルートでやることを原則にして来た。しかし今度だけは、外務省がアレンジしますというので、例外的にお願いすることにした。ところが現地に着いてみると、全く話が通じていない。こういう急場にレベジ氏に無理を言えるという人脈もできていないらしく、手を打つ方法がない。 それでは急遽、笹川記念保健協力財団の現地オフィスを通してレベジ氏側との連絡を取ってみます、と言うと、現地の大使館がそれだけはしないでくれ、という。それで連絡が取れてしまったら大使館の顔がまるつぶれになるのだろうかと当方は勘繰ることになる。結局レベジ氏には会えずじまい、「子供の使いで帰ってきました」と理事長は言う。 笹川理事長は性格が穏やかだから、その程度の報告で済んでいるが、私は人間がよろしくないから「それなら外務省に、少なくともロシア出張の三人分の旅費だけは弁償していただいたらどうでしょう」となる。 このごろの外務省は省内がぐずぐずという感じである。カナダのクレティエン首相の訪日延期に伴い総理官邸での晩餐会がとりやめになった時だったと思うが、外務省が寄越した通知の宛名は「曾根綾子様」だった。私は名前なんて国民の背番号でもいい、と思っている面もあるのだが、外務省が人の名前一つまともに書けないのは困ることだろう。 さらに先日は外務省から日本財団に電話があって、某国の日本大使が理事長に会いたいので「日程はどうなっていますか」という問い合わせがあった。それで財団では先方に合わせて笹川陽平理事長の日程を一生懸命調整していた。ところが途中で「曾野綾子理事長」と先方が言ったので秘書課は驚き、「曾野は会長でございますが、どちらにご用事ですか」ということになった。私は肩書もどうでもいい(と言うより、私には会長と理事長の機能上の違いもよくわからない)ので、これも私が無事に大使にお会いして済んだ話なのだが、肩書を間違えるというのも省内の基本的な訓練と緊張の不足の結果だろう。 まだある。七月上旬、日仏フォーラムという会議がリヨンで開かれるのだが、その日程が予定より狂ったにもかかわらず、こちらから問い合わせるまで通知なし。それに関して或る週明けの月曜日に東京で行われる打ち合わせ会の場所を、前の週末の金曜日の午後二時に、これもこちらから問い合わせるまで通知して来ない。これら一連の気のなさは、外務省以外の人間はすべてヒマでこちら次第で都合はどうにでもなるだろう、という思い上がりの表れだと思えておもしろい。お役所という所は「外部の人なんか全く怖くないんですよ」と解説してくれた人の言葉も思い当たる。 最近、外務省に電話をかけると、出てくる人の声が不機嫌そのもの、地獄の底から響いて来るようだと、数人が言う。うちの秘書など「ああいう方はよほど職場にいるのがおいやなんでしょうね」と素朴なものだ。 夕方からは、偶然だが外務省の無償資金協力実施懇談会。この会議自体は、自由でいい会話ができる。 もっとも会の初めは、お通夜みたいな空気だった。財政構造改革会議で、ODAも前年度比十パーセント削減が決まるだろうという時刻だったからである。私なら一千百億円も予算が減れば、ああよかった、これで少し仕事が減って休める、と喜ぶところだろうと思うが、霞が関の住人はずっこけることができない性格の人たちばかりらしいから、お気の毒である。 ODAなんて、不景気なら盛大に「金がなくてどうしようもない」と悲しそうな顔をして見せれば、墓本的には済むことだ。金がないということくらい、世間でも世界でも強いことはないのである。ないのにある顔をしようとするのは大変だが、ないからない顔をする、というのは楽なことだ。日本が落ち目になることは、どこの国にとっても嬉しい話だから、金がない話は割りとすんなり受けいれられる、と私は思う。
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