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著者: 歌川 令三  
記事タイトル: モンゴル再訪(上) 早春賦「ウランバートル」  
コラム名: 渡る世界には鬼もいる  
出版物名: 財界  
出版社名: 財界  
発行日: 2001/05/08  
※この記事は、著者と財界の許諾を得て転載したものです。
財界に無断で複製、翻案、送信、頒布するなど財界の著作権を侵害する一切の行為は禁止されています。  
  ≪ 「ゾド」とは何ぞや ≫

 日本からみると冬のモンゴルは、格段に遠い。夏なら関西空港から直行便で四時間二十分、この国の首都ウランバートルまで、ひと飛びである。三年前、お盆のシーズンに、そのルートで行ったことがある。だが、今回は北京に一泊しなければ、この国にたどり着けない。直行便は夏しか運航していない。

 冬場に日本からモンゴルに出かけるもの好きの観光客はまずいないからである。私のモンゴル再訪は、「ゾド」のモンゴルをつぶさに、現地で実感することであった。

「ゾド」とは、モンゴル語で「厳冬の災害」という意味で、雪害(白いゾド)、乾害(黒いゾド)、固くて厚い氷(鉄のゾド)の三つがある。モンゴルは、昨冬(一九九九年)三十年ぶりのゾドに見舞われ、家畜総数三千五百万頭(羊、山羊、牛、馬、ラクダ)のうち、主に羊と牛、二百二十五万頭がエサ不足で死亡した。

 ところが翌年も異常気象に見舞われた。二〇〇〇年の夏は旱魃で、牧草は発育不全だったが、冬の訪れとともに記録的な低温と積雪が追い打ちをかけ、約百万頭の羊が飢えと寒さで死んだ。史上最大の二連発のゾドの直撃弾を浴びた牧民の国、モンゴルの今はいかに??。二〇〇一年の三月末、その視察に出かけたのである。

 首都、ウランバートルは、北側にはシベリアのタイガ(針葉樹の大森林)、南にはゴビの砂漠が控える標高千三百メートルの高原の町だ。針葉樹の山を背に、三方を草原の丘に囲まれ、緑の自然にぽっかりと浮かんだ近代商工業都市、それが三年前の夏、空から見たこの町の印象だった。だが「ゾド」のウランバートルの遠景は、雪と氷の白のほかは、ラクダ色と言おうか薄いカフェオレ色と言おうか、不毛の冬の色に覆われていた。

 空港から車に乗り換え、首都郊外のこの冬の色の正体が判明した。乾き切った土肌と、地面に薄くへばりつく枯草だった。「モンゴルの牧草は背が低いです。馬は足で雪を掻く。でも牛は駄目です。雪の下の草を捜す技術がない。だから放牧の牛は餓死する。山羊が一番強い。頭と足で雪に穴をあけ、底にある草を食べる。そのあと羊が残った草の根を食べる」

 出迎えの外務省アジア局のダワジャルガル書記官が教えてくれた。ところでモンゴル人の名前は、綴りの字数が多いだけでなく、発音が難しくて覚えにくい。信州大学に四年間留学し繊維工学を学んだ若い彼が面白いことを言った。

「ダワは月曜という意味。ジャルガルは幸福のこと。僕は月曜日に生まれた幸福な人。エッ? 発音が難しい? そうLとRがあるから。日本航空のガールフレンド(JAL Girl)と発音するといい。ついでにもうひとつ、“こんにちは”はモンゴル語でサン・バェ・ノーと言います。“三杯、NO”。お酒は二杯までと覚えておけば忘れない」と。

 そもそも騎馬遊牧民であるモンゴル人は、会話がうまい。チンギスハンの時代から、他民族を馬上から指図して働かせるには会話力がものをいった。その血を受け継いでいる??と何かの本で読んだことがある。もしかしたら、そうなのかも知れない。

「君、なかなか酒落や冗談がウマイね。落語や漫才の素質がある」とひやかしたら「ハイ。吉本興業に入りたいです。知り合いいませんか」と切り返され、逆にギャフンと言わされた。彼の日本語は本当にうまい。

「春の風は、アバラ骨に突き刺さるという表現がモンゴルにある」とダワ君が言う。同行のモンゴル学者、窪田新一氏に、「早春とはいっても現地は零下十度です」と驚かされて、北京からウランバートルに入ったのだが、この日の外気温はプラス四度。重ね着の着ぶくれに厚いオーバーでは汗が出る。車を降りて、コートを脱いだら、クシャミと鼻水が止まらない。

 

≪ 春風が胸に刺さる ≫

 花も緑もない灰色のこの地で「花粉症」にかかるわけがない。目に見えぬ砂塵か、それとも飛来する羊のフンの粉にアレルギー反応を起こしたのか。多分、冷たい春風がアバラ骨に刺さって、体感温度が急激に下がったのが原因だったのだろう。

 今回のモンゴル視察の日程のひとつに、ストリート・チルドレンならぬ「マンホール・チルドレン」の現場探訪が組み込まれていた。春でもこれだけ寒いウランバートル市には、集中暖房用の太い蒸気パイプが、地下を網の目のように通っており、ところどころに掃除、点検のための人の出入りができる鉄の蓋つきの穴一つまりマンホールがある。

 一九九一年、この国が社会主義を捨て市場経済を導入してから、ウランバートルに大量の浮浪児が発生した。働いても怠けても最低生活の保障のある平等主義が消滅し、代わりに貧富の差が発生した。失業者という新しい現象が起こり、これに「ゾド」の被害が加わり、野菜作り農家、ゲルに住む小規模の遊牧民、そして都市の失業者の家庭から、飢えた子どもたちが大勢ウランバートルに押しかけた。そして夏は街路や駅に、夜はマンホールの招かざる住人になる。

 家出した子どもたちは、ウランバートル市街地のマンホールに住んでいる。その数、三千人とも数百人ともいわれ、実数は定かではない。政府が収容施設を作ったり、国連の機関がシェルター(宿)を提供するなど援助をしている。ここで食糧と衣服をもらう。これで数が減ったかと思うと、春の訪れとともに自由を求めて再びマンホールに舞い戻ってしまうからだという。

 ホームレス・チルドレンの行動は変幻自在だ。警察の手入れや、市役所の巡回車の情報をキャッチするとたちまち姿を消してしまう。ダワ君が子どもたちの行先をようやくつきとめ、車で現場に急行した。三人の女の子がひとつのマンホールに同居していた。十五歳二人と十七歳が一人。番長格の十七歳に三千トグルク(三百五十円)を進呈したらマンホールから外に這い出し、渋々、話に乗ってきた。ウランバートル駅裏の住宅団地である。深さ三メートル、六畳間くらいの地下の空間の住居だった。

 

≪ マンホール・チルドレンと語る ≫

??お父さん、お母さんはいるの?

 田舎にいる。時々、汽車にタダ乗りして家に帰る。お金もっていってあげることもある。お父さんは失業。お母さんは野菜作って売ってるけど、生活が苦しい。だから家を出た。駅に貨車で運んでくる石炭を少しずつ集めて(盗んで)街で売ってお金を稼ぐ。

??この洋服と靴、どこで手に入れたの?

 洋服はキリスト教会でもらった。靴はゴミ箱から拾った。食べ物は一日に一回だけは、教会に行くとタダで食べさせてくれる。

??収容所に入らないの?

 うんと寒くなると行く。でも規則とか教育とかうるさいこと言うから面白くない。もうすぐ春だから、マンホールがいい。みんな逃げてくるよ。

??大人になったらどうするの?

 その時になったら、考えるよ。

 マンホールの中に入ろうとしたら「汚いから入らない方がいいよ」と忠告してくれたのにはびっくりした。私は彼女らの言に従うことにしたが、同行の“窪田学者”と、日本財団国際部の今井千尋さんが、カメラを持ってマンホールに入った。「ほんのりとした暖気に包まれ、居心地は悪くない。食物の包装が散らばって、掃除をした形跡はないが、異臭はない」とのことだった。

 モンゴル国の社会主義時代には、不良少年は若干いたが、浮浪児なる概念は存在しなかったという。「自由化と市場化は賛成だが、同時に社会に大きな歪みをもたらした。マンホール・チルドレンはその恥ずべき実例だ。海外の支援を受けて二年以内に一掃したい」。ついでにインタビューに出かけた社会福祉労働省のチンゾリック次官はそう言った。

 でも、収容所の建設や、キリスト教会や国際ボランティア団体の衣服や食糧のプレゼントで、それが可能なのか。可哀想だから浮浪児に何かしてあげるという外国の慈善活動は、いささか独善的で、かえってマンホール・チルドレンを増やすことになりはしないか。浮浪児の問題は、戦後の日本では十年、産業革命後の十九世紀の英国では数十年かかってやっと解決できたのだ。

 モンゴルのラマ寺の総本山ガンダン寺の副法主にこの問題をどう思うかを質してみた。

「ラマ教は慈善の社会奉仕はやらぬ。マンホールの子を含め、人それぞれが運命をもっている。食物などは一時のものである。自分の思想をしっかりともち運命の中で努力させよ??がわが仏教の哲学である」。いとも簡単な答が返ってきた。キリスト教の慈善と仏教の運命論。どちらも、「二年以内一掃」の政府の目標達成には役に立つまい。

 急速な市場化を取り入れたモンゴル国、いま予期せざる経済の停滞と社会の歪みにあえいでいる。社会主義を放棄してから十年。期待した幸福はまだやってこない。春は名のみの風の寒さよ??ウランバートルの早春賦である。
 



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