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八月二日〜五日 去年中国で、ダムに沈むはずの三峡の景色を見たが、今年は中国の貧しい土地に触れる旅をすることになった。私の最近の関心と勉強のテーマが「世界の貧困」の実態を知ることだから、これはありがたい提案であった。 私としては、ふらりと行って目に入るものを見て来るというのが私らしいと思うのだが、今回は中国衛生部の案内を受けることになった。日本財団は一九八七年以来、中国の中堅のドクターたちを毎年百人ずつ日本に招いて、各地の病院や大学で一年間の研修をして頂いた。このプロジェクトを実施して今年でちょうど十年目、人数も千人に達したのである。財団がそのために使った費用は三十九億円余り。このプロジェクトはまことに実り多い有効な企画だったと言える。日本が戦争で与えた被害の万分の一か、億分の一のお詫びもできた。日本に留学した若い中国人ドクターたちは、日本を肌で知り、恩人友人ケンカ仲間もできたことだろう、と思う。 この人間的繋がりこそ、最大の両国の財産だ。中国側はそのことを感謝してくださって、一九九二年にユネスコの世界文化遺産の一つに指定された四川省北部の九寨溝も見るように言われる。 この九寨溝は、四川省の北部も甘肅省に近いところにある。標高二千六百メートルから三千百メートルに、色も姿も全く極端に違った湖がいくつも集まっており、その間を、急流、淵、滝などが繋いでいる。成都からは一日で約四百五十キロ。マイクロバスはひたすら岷江に沿って至る所舗装工事中の川岸を遡る。 途中、高度三千四百三十メートルの峠を越えた。どんな奥地でもパラボラ・アンテナだらけ。ボタンキョウは、私の生涯で食べたものの中で一番のおいしさ。街道は、どんな田舎でも食堂が途切れることはない。一人十元(百五十円)のドライバー食堂でおいしい御飯が食べられる。 九寨溝の湖は一つ一つ際立って個性的な容姿を持っている。或る湖は青く澄んだ湖底・に枯れ木を眠らせ、或る湖はさざ波一つ立てずに対岸の山と秋の燃える紅葉を正確に水鏡に映すという。一頭の白い馬さえ置けば、完全に東山魁夷画伯の世界である。或るいは崖の全面を一斉にせせらぎが流れ落ちる。翡翠の青を見せる水。北欧のフィヨルドを思わせるおおらかな湖。 帰途、いくつかの病院や保健所へ寄った。破れた壁から芯の羽目板が覗いている病室で、帝王切開を受けて初めての子供を産んだ若い母が寝ている。カシンベック病の患者にも会う。妻は伸ぴ伸ぴと背が高いが、病気の夫は、子供に近いほど背丈が縮んでいて骨が痛いとしきりに言う。 八月六日 昆明に移動。さらに南の西双版納に飛ぶ。このあたりだけでも二十四の部族がいる。彝、白、納西、ラウ、リス、哈尼、普米、怒、獨龍、景頗、基諾、阿昌、蔵、特昴、布朗、蒙古、回、瑤、布依、水、苗、壮、ワ、タイ、である。村もすべて部族に分かれており、家の建て方も、高床式、一階が部屋になって二階が納屋になっているもの、屋根が平らでそこに穀物を干すようになっているもの、など特徴がある。 夕食を池の上に建てられた亭のような家で食べた時、哈尼族の娘さんがウェイトレスだったので、早速暮らしぶりを聞く。 年齢は二十歳。月給は百八十元(二千七百円)。休みは長い時で一週間もらう。家はバスで二時間、降りてから六時間歩く。父は農民。男兄弟は三人。と通訳されてから少しもめた。彼女は女三人姉妹の末と言っている。それだと数が合わないじゃないか。いや、こういう部族では、子供の数の中に女を入れない。だからきょうだいの数を聞かれると、男だけ三人と言うのだ、と説明されて納得。 中国の貧困県の中でも特別に貧困な県を特困県と言い、一人あたりの年収が三百六十元以下のものを言うという。つまり一人が一日一元弱(十五円)で暮らすことだ。 西双版納からは、東の墨江に向かい、もう一つの世界文化遺産「石林」を見る。途中で名物の鴨を食べる。鴨を吊るして油を抜く。同時に蜂蜜とラードを塗って石油缶の縁に吊るして炭火で焼く。一匹百五十円の幸福。 八月十一日 バンコクで乗換に時間がないので、リュック一つを担いでシンガポールに辿り着いた。関西から息子の太郎も来ていて、ナッシム・ヒルの家でひさしぶりの親子再会。 八月十二日 海上保安庁の練習船「こじま」がケッペル埠頭に停泊中なので、お祝いのレセプションに出席する。 八月十六日 浴室の改装のために外してあったシャワー室の重いガラスのドアが突然倒れて、ガラスが飛び散り、夫が足や手に切り傷を作った。既に太郎が手当てをしていたが、私が外から帰ってみると浴室の中は血まみれ。血を洗い流しながら、とうていパラパラ事件の痕跡をくらますことなど不可能と思う。 今は餓鬼の月なのでこういう事故が起こる、と土地の人は言う。彷徨う餓鬼でいっぱいの夜は懐かしく騒がしい。
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