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著者: 曽野 綾子  
記事タイトル: 或る饗応計画  
コラム名: 夜明けの新聞の匂い 1997/03/06  
出版物名: 新潮45  
出版社名: 新潮社  
発行日: 1997/04  
※この記事は、著者と新潮社の許諾を得て転載したものです。
新潮社に無断で複製、翻案、送信、頒布するなど新潮社の著作権を侵害する一切の行為は禁止されています。  
   昔、公明な選挙をしましょうという趣旨の集まりに、講演を頼まれて行くことになったことがある。私は政治とか選挙とかの話はほとんどできないのである。それなのに行ったのは、欲得と雑念が入った「できごころ」であった。その日がぽかっと空いたとか、講演の開催地かその近くに取材を兼ねて行きたい土地があったとか、そういう私情が働いたのである。深く反省している。
 講演の初めに、私は言った。
「ものの本によると、一票ほしい立候補者はお握りの中に一万円札を入れて来る。汚いですねえ。私は実はまだもらったことがないのですが、誰かそういう人がいないか心待ちにはしているんです。私の選挙区からは石原慎太郎さんが立っていて、うちにだって数票は集まっているんですから、慎太郎から一万円札入りのお握りが届いて来ないかとずっと思っているのですが、あの人は気がきかないから一向にくれない。
 しかし万が一もらった時のシナリオはちゃんとできています。私は深くお礼を言い、いかにも『分かってます。マカシトイテ下さい』という顔をしますが、こういうワイロを寄越した政治家にだけは、絶対に一票も入れない。
 皆が私みたいにすれば、そのうちに政治家の方でも、一万円札入りの握り飯は有効でない、と気がついて選挙違反はなくなるのです」
 ふと舞台の袖を見ると、主催者の人が、苦虫を噛み潰したような表情になっている。やっぱりこういうまじめな企画をする人たちの講演会には出るべきではなかった、と落ち込んでしまったのを今でも覚えている。
 当時から、政治家や役人は厳正に付き合わねばならない、と喧しく言われ続けられているにもかかわらず、ここ数ヵ月、厚生省にも運輸省にも大蔵省にも通産省にも、それより以前には文部省にも労働省にも、皆逸脱した饗応を受けた役人が現れた。
 その結果、昨年十二月十九日頃、「行政及び公務員に対する国民の信頼を回復するための新たな取組について」なる興味ある文書が、内閣官房長官から各事務次官宛てに、公務員の倫理規程を示したものとして送られたのである。
 それによると、この文書の目的は、「関係業者等との接触等に関し○○省(庁)職員が遵守すべき事項等を定めること」にあるという。
 基本的心構えとして、
「職員は、すべて公務員は国民全体の奉仕者であって、一部の奉仕者ではないことを自覚し、公正な職務の執行に当たる」
 とある。
 私が英語で公務員という単語を知ったのは、はずかしいことだが、大学の卒業後である。何しろ大学時代小説ばかり書いていたので、当然知っているべき「シビル・サーバント」という単語さえ知らなかった。公僕という訳の出所である。
 サーバントだから、あくまで下にあってお仕えするものだ。しかし現実の公務員は、端がどんなにワルクチを言おうが、自分は偉い人だ、と思いこんでいる。このビョーキはほとんど治らない不治の病である。
「ローマ教皇が正式に署名なさる時何と書くと思います?」と言うと、たいていの人は「ヨハネ・パウロ二世とお書きになるんでしょう?」と答える。もちろん私も教皇が正式にサインなさる場など見たこともないのだが、「神のしもべのしもべ」と署名されるのだという。
「神のしもべ」とは、人間一般のことである。神の仕事に参加させて頂くという光栄をこめて「神の奴隷」という表現をすることさえある。奴隷の方がしもべよりもっと己を棄てて神に密接に結びついている、という誇りがあるのだろう。「神のしもべ」としての普通の人より更に一段下に自分の身をおいて仕えるのが教皇の立場だと、この署名は明確に表している。
 しもべというのは、靴を磨いたり、洗濯をしたり、庭を掃いたり、ドアをお開けしたり、民主的な平等に反する差別的な仕事をするものだ、としか思っていない人は、しもべという言葉を聞いただけで、封建時代の残滓の思想として反発する。しかしキリスト教的に、神の仕事に、神の命令を受けてしもべとして参加させてもらえることは、他のいかなる仕事より光栄なことだと考えられれば、しもべという言葉は全く違う意味を持つ。だから神のしもべのしもべを勤めるローマ教皇は、最も低い仕事をするという点で、最高の立場なのである。
 しかしこれは恐らく大変むずかしい逆説的論理であろう。神などという「遅れた」意識とは無関係がいいとする多くの日本の官僚やインテリは、当然神なしで現世における自分の立場を考えようとする。神がいなければ、人間は簡単に偉くなれるから、以下に述べるような児戯に等しい細則を設けて締めつけねばならなくなる。
「職員は、関係業者等との間で、次に掲げる行為を行ってはならない。
ア 接待を受けること。
イ 会食(パーティーを含む。)をすること。
ウ 遊技(スポーツを含む。)、旅行をすること。
エ 転任、海外出張等に伴うせん別等を受けること。
オ 中元、歳暮等の贈答品(広く配付される宣伝広告用物品を除く。)を受領すること。
カ 講演、出版物への寄稿等に伴い報酬を受けること。
キ 金銭(祝儀等を含む。)、小切手、商品券等の贈与を受けること。
ク 本来自らが負担すべき債務を負担させること。
ケ 対価を支払わずに役務の提供を受けること。
コ 対価を支払わずに不動産、物品等の貸与を受けること。
サ 未公開株式を譲り受けること。
シ 前各号に掲げるもののほか、一切の利益や便宜の供与(社会一般の接遇として容認される湯茶の提供等を除く。)を受けること。」
 大変な条件の羅列である。読みながら、小説家なら、これらのどれを受けても構わないのだがなあ、とつい思ってしまう。ワイロでも(出してくれる人と目的があるかどうかは別として)、異性からの不純な目的を含んだ贈り物でも、誰かにマンションを買わせることでも、出版社に取材と称して外国旅行の費用を出させることでも、何でも構わないのである。それなのに公務員はいけないと言う。これからはこんな窮屈な公務員などなり手がないだろう。
 冗談は別として、これらの倫理規程が困るのは、すべて書かれていることが幼いからであり、その幼稚な限定が有効であるかもしれない状態にある、ということである。
 自分の個人的な才能や能力や気持ちや努力とは関係ない役所の機能を個人用に使って利益を得るなんて「キタナイ」という感じは、別に倫理規程として出さなくても、当然あるべきものである。
 私は日本財団というところへ就職して、たった一つだけ自分の才能だと思えるものを発見した。どんなエライ人から頼んで来ても、断るのにいささかの心の痛みも覚えないで断れる、ことである。役人に皆それができれば、一万円札入りのお握りをもらうのと同じで、もらっておいてその人の言うことをきかなければいいのだ。そうすれば、官庁がこんな細則を出さなくてもいい。
 私は官庁のこういう硬直した考え方に反対である。贈り物はともかく、いっしょに会食やスポーツをしてどこが悪いのだ。税務署が個人の家を訪ねた時、お茶ならいいけれど、コーヒーはいけない、などという笑い話を聞いたこともある。こういう細則を決めた小心な人は、確実に小説の主人公になる。
 飲食は相手の立場を理解する場合に、重要な要素である。少なくとも、私たちが取材をする場合には、食事やお酒なしで、話ができるとはとうてい思われない。しかしどんな場合でも誰とどういう目的で、どこで何を食べたか飲んだかを隠す必要などどこにもない。高知県の橋本知事が、高知県では官官、官民共に一切接待をしない、という声明を出した時「あ、これは世論に迎合した人気取り発言」と思った。
 日本が平和だったおかげで、私は今まで流行と反対のことをしても気持ちよく生きて来られた。これが命を狙われるようになったら、私などすぐに妥協して言うことを変えるだろう。それで今度も、こんな幼稚な倫理規程とは逆の方向を取ることにしている。
 私は日本財団に来て下さった方には、夕方ならいっぱいのビールとか、お昼ならば四百七十円の社員食堂のご飯をできるだけ食べていらして下さいと言っている。コックさんは腕がいいのでご飯はかなりおいしいし、「査察」の技術の基本は、その家でお茶を飲んだりトイレを使ったりすることだから、税務やマスコミの関係者は、用がなくても食堂やトイレを使い、親しく事務所に出入りしてその空気から様子を探ればいいのである。しかしこちらは高価なものなど一切出さない。電気のない土地を私は何度も旅行したので、人はいっぱいの冷たいビールだけで、幸せいっぱいになれることを知っているからである。
 私は最近、現職の大臣と、党の重要なポストにある方と食事をしたことがある。先方が二人、こちらが二人である。どちらがどちらを奢ってもどうということはない、と私は思っているが、こちらは礼儀を失しないように先に料亭に着くと、すぐ女将さんに言った。
「今日は割り勘ですから、現金でお払いして行きますので、領収書を用意してください」
 ヤボな話だが、それもいいだろう。受け取りは、新聞記者が覗き見趣味で見たいと言ったら、いくらでも見せられるようになっている。
 いくら仕事の話でも、大臣室では困ります、と言ったのは私である。ほんとうはおでん屋の小部屋でいかがでしょう、と伝えたのだが、それがお料理屋さんになったのは、お膳立てをしてくださった方たちが、多分そこにお互いのお互いに対する礼儀みたいなのを感じたからだろう。
 私はほとんどお酒を飲まないに等しいが、それでも大臣室で細かい経緯を述べたり、今後どのような形で財団を運営したいか、などという話をできるとは思われない。そんなことをしたら「交渉」になってしまう。人間は十分に理性的で賢いと同時に動物的に愚かしい部分をも残し、理論的でも感情的でも情緒的でもあるのだ。それを考えて場を設定するのは、当たり前の知恵というものである。
 シンポジウムというものが現在も流行っているが、あれはギリシャ語で「饗宴」ということだ。杯を挙げつつ語ることの人間的な意味を賢いギリシャ人たちは十分に知っていたのである。だから今どきのシンポジウムは会議の最中に、ビールいっぱいも出ないことに、私は毎回不満を抱き続けている。(あれはサギだ)
 公務員の倫理規程は、自己規制ができない癖に指導的な立場にいる官吏が増えすぎたからできたので、それなりに必然性があるのだろうが、こういう文書を出すことがいいことだとする霞が関の思考自体がほんとうは笑い物であろう。もう既に、役人はどんどん幼稚で硬直している。
 私のみならず、他の何人かの人からも聞いたのだが、霞が関の無礼と非常識というのは、今や救い難いまでになっている。というのは、人間は誰でも知人に小さな贈り物をすることはある。知人の家の子供が本好きだということを知っていれば、自分がもらった図書券を送ってあげようと考えたり、自分の郷里から柿を二箱もらえば、一箱をあの方のお宅で食べてもらえたら嬉しい、と思うのは自然だろう。
 そう思ってほんとうにささやかな贈り物をしても、最近の霞が関族は、礼状一つも寄越さなくなった。別に礼状はどうでもいい。しかし贈り主に礼状を出さない引け目が残るのだろう。その後も、人間として親しくなる、という行動や欲求や表現が一切ない、という点も共通している。なぜなら、人間というものは心やものを貰ったり贈ったりするのが自然だからだ。人間が動物と違うのは、むしろその点なのだが、それを封じれば、今後ますます不気味な、悪いことをしないだけという奇人が霞が関に増えるだろう。
 饗応とは何を意味するのか。常識的に考えれば、それによって心地よい、豪華な感じになれる体験を用意することだろう。
 しかしもし、それが危険と不便に満ちた場所ならどう考えるのか。日本財団では、主に私が行くのだが、中国の奥地とか、アフリカの貧しい地帯とかによく入る。私はつくづくそういう土地に若い官僚やマスコミの人たちを「招待」したい。今すぐ仕事に関係ないことに、官費・公費が出ないのは当然だ。だから民間がそういう人たちを教育する場を作ってどこが悪いというのだ。すべては日本のためである。今の官僚たちは、政治の場に出ることはあっても、現場を全くと言っていいほど知らないのだから、私は現場を知る手伝いをしたいのである。
 大臣との席でも、私はそういう土地に官庁の若者たちを、新聞記者といっしょに「ご招待」したいからお許しください、と申し出た。たとえば、今度私が入ろうとしているのは、夏には中国の奥地、まだ日時は決めていないがアフリカのマダガスカルとアンゴラである。それらの土地へ行けば、人間の生活の原点がわかる。貧困というものがいかなるものかもわかる。
 いずれも寝袋を持って行く土地だ。道は悪く、電気も水道もない代わりに、マラリアと下痢とエイズは必ず豊冨にある。こんな土地へ同行することも「饗応」になるのか。
 霞が関には、倫理と共に勇気もなくなったのだ。こんな倫理規程など出す代わりに、どうしたら心身共に強靱で、理想と自己規制を失わないシビル・サーバントを作れるか、霞が関は腐心すべきだろう。日本の若者たちは十分にその素質はあると思うのに、今はこの手の軟弱で防御的な姿勢と教育ばかりが幅をきかせているので、全くモヤシのような人格がどんどん増えているのである。
 この計画に賛同してくださるマスコミと官庁があったらお知らせ頂きたい。すぐにすべてを世間に公表しつつ、実行に移したいと思う。

 



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