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男たちは、私がいるところでも平気で女性のワルクチを言う。私は女性と認められていないのか、それとも私なら何を言っても平気と考えているのか。たった一つ彼らが本音で何を考えているのかわかるという点ではおもしろいところもある。 先日、我々のような年頃の女性を指してオバタリアンという人に久し振りに会った。新幹線や列車の中で、とにかくオバタリアンの喋りほどお煩(うるさ)いものはないのだという。 私のもう一人の知人は、耳栓を持って新幹線に乗るのだそうだ。それもオバタリアンの大声のお喋り対策である。 なぜオバタリアンは大声で喋るか。それは、子供の時から、公共の場所では声をひそめて喋るのがレディというものですよ、という基本的な教育を、親からも先生からも受けなかったからだろう、と思う。 アフリカの人たちは声が大きい。それは部族を越えた特徴だ、と皆が言うことである。初め私は大変意外だった。 声が大きくなるのは、あたりが騒々しい先進国の大都会のような所でこそ必要な技術だが、自然が残る静かな環境では、必要ないことのように思えたからである。 南アフリカ共和国の首都ヨハネスブルクの郊外には、部族の文化を教えるテーマパークのようなところがあって、テントの中ではどの位置にお父さんとお母さんが座るか、とか、楯の模様は何を意味するか、とかいうことを教えてくれる。学芸員のような人が、何でも質問していいというので、誰かが、どうしてアフリカの人は声が大きいのか尋ねた。するとそれは村の中で秘密を作らないために、大きな声で喋るようにしつけられるのだ、という説明である。彼が私たちをからかうつもりででたらめを言ったのでなければ、おもしろい説明だ。 外国では、人と接触するような空間では、子供のうちから囁(ささや)くことを教える。普通の声でもいけないのだ。囁くようにしなさい、としつける。 私は学校でヨーロッパ人の修道女たちから、沈黙ということを教えられた。靴を履き替える場所も、廊下も、トイレも、厳しい沈黙が要求される場所である。それらはそれぞれに目的があるのだから、その目的を果たすのが先決であって、ついでに会話を楽しむ場所ではないという明確な説明がついていた。 現代人は沈黙ができなくなった、という。 マックス・ピカートは「沈黙の世界」という書物を次のように書き始める。「沈黙は決して消極的なものではない。沈黙とは、単に語らないことではない。沈黙は一つの積極的なもの、一つの充実した世界として独立自存している」 しかし騒音語の中では、我々は自己を表現することもなく、特性も失い、しかも外界から提供されるものにも気がつかない、と言う。沈黙を失った社会はそれだけで病んでいる、とピカートは見たのである。
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