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著者: 曽野 綾子  
記事タイトル: 文明を遠く離れて  
コラム名: 私日記 第4回  
出版物名: VOICE  
出版社名: PHP研究社  
発行日: 2000/04  
※この記事は、著者とPHP研究所の許諾を得て転載したものです。
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  二〇〇〇年一月二十三日
 でがけに教会にちょっと立ち寄った。ミサに出席する時間はなかったが、今日は息子の誕生日。そのまま成田空港へ。日本財団の人たちと十二時発の飛行機でシンガポール経由、インドのチェンナイ(マドラス)に向かう。
 機内の英字新聞、まことにおもしろい。背丈が二メートル四十二センチもあるザン・ジュンカイという人が中国にいるという。まともな背でいることのささやかな幸せなど、普通誰も考えない。
 シンガポールはインドのシリコンバレーといわれるバンガロールに、インドと合弁のハイテク・パークを作るという。数年前だが、バンガロールは町中で半日は停電していた。そんなシリコンバレーがあるだろうか。
 イランでは七人の泥棒がイスラム法に則って罰として手首を切られた。年齢は十八歳から五十三歳までだという。人殺しをした四人は死刑。まさに「目には目を」の同害復讐法の世界がまだ生きているのだ。それが彼らの正義なのである。
 ラオスでは、メコン地帯で行われている女性と子供の「密輸」撲滅を目的とした国連の運動が始まった。中国南部、ミャンマー、タイ、ベトナム、ラオスの国境周辺では、女性と子供が商品として盛んに売られている。最近の不況が、この人身売買をいっそういい儲け口にしているのである。
 タイでは、国家予算が足りないので、十六機のセコハンのF16A戦闘機をアメリカから買うのに、値引きの交渉に入った。現在の価格は、十六機と、他にスペアのパーツを取るための二機分を合わせて、一億五千七百万ドルだが、それを一千七百万ドルにしてもらおうというのだ。どちらにしても実感のないほどの高額の買い物だ。金がないなら、戦闘機など買わなければいいと思うのだが、防備がなければ、すぐ攻め込まれるのが普通なのだろう。
 マレーシアでは、タイから入って来た長距離トラックの荷物の中から、密猟で捕獲されたコブラなどの有毒の蛇が四百四十一匹も発見された。これらの蛇は五十六個の袋に詰め込まれ、料理用食材として中国、韓国、台湾などに密輸出される途中だった。価格は二十万リンギットというから、約六百四十万円くらいになる。日本の新聞にはどうしてかこういう話が出ない。
 
一月二十四日
 昨夜はうとうとしただけ。朝四時半にホテルを出て、空港へ向かう。なのに飛行機ははたして一時間遅れるというので空港二階の食堂で朝ご飯。朝霧を見ながら、コンデンス・ミルク入りのコーヒーはくれたが、待てど暮らせど、その他には何も出ない。メニューを持って来るのを忘れていたのである。
 一時間ほどでアラビア海に面したカリカットに着く。空港では、日本の風呂桶くらいのダンボール箱を持って到着した人がいっぱい。イエズス会のホセ神父に会って真っ先に、「あの箱は何ですか」と聞くと、湾岸に出稼ぎに行って金を手にして帰って来た人たちが、衣類や電気製品を持って帰るのだという。十リットル入りのポリタンクには、メッカに巡礼に行った人たちが、メッカにあるたった一つの井戸から汲んで持って帰って来た聖なる水が入っているという。
 一時間くらいのドライヴでタジ・レシデンシィという新しい立派なホテルに入った。アフリカの一国の首都にさえ、これだけのホテルはない場合が多い。昼食の時間を待っていると遅くなるので、部屋でサンドイッチとカレーを食べた後で、ツディに向かう。車でワンダヤナの丘を登ること三時間近く。ヒマラヤのあるインドでは、箱根くらいの高度の土地は、山と言わず丘なのだそうだ。
 途中、イスラムの金細工屋が軒を連ねている小さな街道沿いの町を通る。
 ツディで、今イエズス会が経営しているサルボダヤ学校は、以前ヒンドゥの企業家がまず小さな校舎を建て、政府支援の学校という資格を取りうけてから、営利目当てに売った由。ここでもイエズス会は、ヒンドゥの階級制度の外に置かれた部族の教育をしている。日本財団は、校舎の増築を手伝ったのである。
 この地方にいる部族はパニヤスで、外見的には、紫がかったほどの漆黒の肌、ちりちりの髪、つぶれた鼻が特徴である。かつて奴隷として働いていたため、人を見ると逃げ出すようになっていた。人の近くにもなかなか寄って来ない、という。今は女の子たちはシスターたちの作ったキラキラの民族衣装を着て、くっきりと濃いアイラインを引いたお化粧をし、子供ながら小美女の色気も見せてダンスをしてくれる。
 結婚式の日の花婿を囲む男友達の踊りでは、男子生徒たちが鼻髭を描き、ユーモラスな踊りを見せる。ことに花婿役の男の子は、嫁さんを見つけられた得意さと不遜さを見せて、周囲をあしらう。その仕草とタイミングが見事である。
 その子は実は落ちこぼれで、勉強が嫌いだから今は学校にも来ていない。ただダンスの時だけ顔を出すのだという。教育がダンスばかりのように見えるのは時々悲しいが、踊りによって自分の部族の存在をはっきりと表に出せるようになった。私たちに花を贈ってくれる役の子供たちだって、今は握手もするが、昔はどんなに言っても人前には恐ろしがって出なかった。そんな世界が今でも残っているのだ。
 
一月二十六日
 朝、カリカットを出て、一度ムンバイ(ボンベイ)まで北上し、それから再びゴアまで南下する。直行便がないのである。このラインは観光客が多いらしく、民間航空二社が競い合って、一時間一本くらいの割合で、ゴアまで飛ばしている。空港で懐かしいインドの豆コロッケ、サモサを買って食べた。
 ゴア空港で、旧知のロッシ神父(やはりイエズス会)に会う。
 ここにも、ホテル・エキゾティカという豪華ホテルができていた。ジャグジーの丸いバスタブまでついている。明日はムンドゴッドという村まで、約六時間かかるというので、朝六時出発と決める。早めに夕食をとって、ベッドの中で『今夜、自由を』(D・ラピエール&L・コリンズ著、早川書房)を読み続ける。これは一九八一年に買ったもので、読み始めたらやめられないおもしろさであった。今二度目だが、私はもっとよくインドの事情がわかるようになっていた。しかし文庫本は古くなっていて、ページは黄ばみ、活字も小さくて読みにくい。帰ったら新しいのを買いたい。
 
一月二十七日
 ホテルを出た時、まだまっ暗だった。あちこちの教会だけが大戸を開き、祭壇に蝋燭を灯してミサの準備を整えている。
 二時間ほど走ったところで、トイレ・ストップを兼ねて朝食をとることにした。まずラクシュミなんとかという煤っぽい「ホテル」という名の宿屋の前で車を止め、ロッシ神父が「トイレあるか?」と聞くと、店のおやじさんは、二十キロほど行くとトイレのあるホテルがあるから、そこまで行け、と親切である。ということはインドにはトイレのない宿屋もあるということ。
 教え方は実に正確だった。トイレはインド式だが、手桶のための水も出るし、不潔でもない。そこで、インド式のパンとカレーとサンバルを食ベミルク・ティーを飲んだ。あまりおいしいので、ミルク・ティーをお代わりした。それでも財団が払った朝食代は、一人百円以下である。
 道がよくなっていて、六時間はかからず、五時間ちょっとでムンドゴッドに着いた。以前来た時は、バンガロールから、十時間近くかかった。
 ここは町というか村というか。そこでイエズス会がロヨラ・スクールをやっている。まだ私が日本財団で働く前、私たちがやっている小さなNGO、海外邦人宣教者活動援助後援会は、そこに学校を建てた。小学校三年生までは、教室だけで椅子も机もない。家が土の家で家具も何もないのだから、学校でなまじっか椅子などに坐らされると、それだけで緊張して勉強もできない。だから低学年のうちは、学校でも床に坐って上級生になると椅子と机をもらうんだ、と心の準備をする。
 やがて私たちは、再び四百万円を出して校舎に二階を載せた。今は総勢四百四十人もの生徒が勉強しているが、バスもない、自転車もない、歩くだけだから片道六キロくらいが通学の限度だ。そこで、海外邦人宣教者活動援助後援会と日本財団が、それぞれに寄宿舎を建てた。寄宿舎にもベッドはない。床にゴザを敷いて雑魚寝をする。淋しくなくていいだろうが、親たちはなかなか子供を学校に出したがらない。家におけば牛飼いの仕事などさせられるのだから学校にやる余裕はなかなかないのだ。
 子供たちが盛大な歓迎会をしてくれたが、まず国歌斉唱。ラビンドラナース・タゴールの詩は、ベンガル語ではなくサンスクリットだという。アフリカからゴアに奴隷として連れて来られたネグロイドの部族はシディという。他にガウリ族と、ジブシーのランバーニ族が生徒たちの主な出身部族である。いずれもヒンドゥの階級社会に全く入れない人たちである。
 学校や寄宿舎をすべて見た後、今後の計画、今までのお金の使い方、その報告書の出し方などについて、夜八時近くまで、蛍光燈二本しかついていない教室で神父たちと話し合った。神父たちは無限に、子供たちのための計画がある。寄宿舎はまだ九棟要る。ミシンの縫製、家畜の種つけ、農業研修の制度も作りたい。それはわかるが、こちらの経済的テンポもあると説明する。
 八時過ぎにシスターたちのやっている近くのクリニックに立ち寄った。こんな時間でもまだ診療をしている。ここへは海外邦人宣教者活動援助後援会が保育器を贈った。この保育器のおかげで、去年は六十五人の子供の命が助かった、とシスターたちは言ってくれた。
 夜はセント・リタ教会の神父たちの部屋を借りて泊まった。蚊がいそうなので、蚊取線香を焚いた。
 
一月二十八日
 朝六時半。ロッシ神父が数人の神父たちとミサを上げる。私たち日本財団の三人も車座になって参加する。すがすがしい静寂の中でロッシ神父は、再びタゴールの詩を聖歌としで歌う。「あなたの傍に坐って」という詩だ。帰ったらタゴール全集で、見つけだそう、と思う。カトリックでない財団の二人のために、神父は聖体の代わりに甘い土地のお菓子を与えた。
 
二月二日
 朝、残りごはんでお粥を食べただけで、お腹が痛くなった。食あたりではないことは確実。一月三十一日の朝、ムンバイから全日空で関西空港へ着き、そのまますぐ乗り継いで羽田に戻った。ずっと元気で昨日は一日机の上の郵便物の整理をしたのに、今朝になってさっぱりしない。
 風邪だ、風邪だ、と少し嬉しい感じ。一日ベッドの中でごろごろ。少し熱が出た。
 
二月四日
 一時から武道館で、読売新聞社代表取締役名誉会長・小林與三次氏の葬儀。私は弔辞を読むことになっている。一番楽しい思い出は、小林氏とまだご結婚前だったお嬢さんの英子さんとヴァチカンヘ行った時。教皇にお会いして、道端のカフェでエスプレッソを飲んだ。小林さんは、英子さんにいろいろ買ってお上げになって笑顔ばかりだった。いっしょにNTVのプロデューサーの樋口さんがいて「社長はお嬢さんにはいろいろ買ってあげますが、僕には買ってくれませんね」などと言っている。ほんとにこういう伸び伸びした社員もいたのだ。その樋口さんももう亡くなった。
 お葬式が終わった頃から、猛烈な胃痛。普段からお腹なんか悪くしたことがないのだ。それで後の会合を断ってそのまま帰る。途中の薬屋でブスコバンを買って、家へ帰るなり飲んで幸せに眠った。
 
二月五日、六日
 嬉しい風邪の続き。徹底した怠け心。
 それでも明日、うちで海外邦人宣教者活動援助後援会の運営委員会があるので、そのためのおでんを煮る。アフリカの飢餓を救う仕事をするのに、ごちそうを食べる必要はない、という都合のいい理由があるので、明日は握り飯、おでん、漬物。それだけ。でも懐中汁粉、おせんべい、干し薯など、頂きもののお菓子は充分ある。
 夕方、いろいろなことで、お雛さまを飾ることになってしまった。とうてい毎年は飾れない。めんどうくさい。それでも台においたら位置を決めるのに結構手間取ってしまった。
 
二月七日
 夕方、『財界』編集部。春から始まる小さな連載についての打ち合せ。
 今日の運営委員会のお客様は、ボリビアから倉橋神父。同じサレジオ会の尻枝毅神父。シスター・マリアはスペイン人でコンゴにいた。田舎の貧困は凄まじく、子供が小さな鼠を取って、そのまま頭を千切って食べているのを見た、と言う。
 シスターの申請は、コンゴの田舎の学校では生徒が一日一食もまともに食べていないので、五キロも六キロも歩いて学校まで来ると、お腹が空いてしまって勉強ができないから、せめて給食費を出してくださいということ。こうした給食は、アフリカでも南米でも、大体一食四、五十セントでできる。
 インドのロッシ神父が申請していたビジャプールの土地五千平方メートルを買う資金約一千五百万円も認可した。神父はここで不可触賎民の子供たちだけを入れる学校を作ろうとしている。ビジャプールは小さな工業都市で、空気は汚染されているが、企業の経営者たちは自分はそこに住んでいないから平気なのだという。貧しい子供たちの学校は町の中心に建てなければ、バスもないから通えない。しかしそうした土地は、地主が足元を見ていて、決して安くは売らないのだという。
 会の直後にインドにファックスで、申請認可を知らせた。今日だけで、約二千二百万円を決定したことになる。
 九日からのニューヨーク行きのために着物をようやくカバンに詰めた。
 
二月九日
 正午、JALでニューヨークに向かう。
 「ザ・スピリット・オブ・ヘレン・ケラー」賞を日本財団が受けることになって、ニューヨークの本部に受賞に行くのである。
 日付変更線のため、同日の十時少し過ぎニューヨークに着いた。入国管理官はミスター・マネーメーカーというおもしろい名前の肥りぎみのお兄さん。日本にも、同じようないい名前があるのよ、というと「何というのだ」としきりに聞く。こういう雑談をすると心がほのぼのする。
 アメリカは零下だぞなどと、脅す人もいたが、八度もあっていい天気。
 午後、五十四丁目にあるホテルから、五番街まで、一人でぶらぶら。ニューヨーク人は、オーバーなど黒ばかり。私のオーバーも偶然黒。今度、冬に来る時は、グリーンか茶を着よう。タクシーの運転手はアラブ系の人が多い。運転席との間のプラスチックの隔壁に名前が書いてあるから、顔など見なくてもわかるのである。
 デパートのアクセサリー売り場では、如何にニューヨークっ子がハート型が好きかよくわかる、私たちは、ハート型だというだけで幼稚で買えないが、アメリカ人には何かインパクトがあるのだろう。
 乞食もホームレスもいる。ホームレスは体格のいい男で「HIV+」と書いた札を立てている。結局一セントも買い物をせず、途中でエスプレッソを飲んでホテルに帰った。
 思い返してみるとニューヨークで今までに一番感動したのは、モネの水蓮の本物の絵を見たことと、ミュージカルで『ナイン』を見たことだったと思う。
 お昼に大好きなブライム・リブを食べたので、夜食は食べずに寝てしまう。リブは大きすぎて半分くらいしか食べられなかった。
 
二月十日
 朝、マンハッタンの素晴らしい景色の見える部屋で、河村武和総領事ほかお二人と、朝食を頂く。ニューヨークに来たら、パンケーキを食べようと思っていたので注文すると、大きくてふくふくに厚く熱く焼けたのが三枚も、小山のようになって現れた。嬉しいけれど、他の方にも分けて食べて頂く。
 十時半に、たっぷり十分は遅れてギャングの乗るようなリムジーンのお迎えが来て、ヘレン・ケラー・ワールドワイドの本部を訪ね、パルマー所長ほかの方々に挨拶をする。
 入り口に一枚の絵のコピー。第一次大戦の戦場の絵なのだが、死んで横たわっている戦死者や、傷ついてよろめきながら歩いている兵士たちがすべて眼を負傷して眼帯で覆っている。実に象徴的な画面である。ヘレン・ケラー・ワールドワイドが生まれた根本の精神は、この時の戦争の失明者を再就職させることであった。
 今回の受賞は、日本財団が主にアフリカやラテン・アメリカに多い「川の盲目」と呼ばれるオンコセルカ症の撲滅のために一九九一年以来約七十二万三千ドルを出して来たことを評価されたのである。今では、原虫が体内にいることがわかれば、一年に一度、約十年間薬を飲み続ければ失明を防げる。しかし患者の多くは、自分の正確な生年月日も知らない。住んでいる土地には雨期と乾期があるだけで、四季がない。カレンダーもないから、もらったら十二ヵ月をすぐばらばらにして親類縁者に配ってしまう。優しいのだ。叔父さんの家には四月を、妹には十月を、甥には六月を、というふうに分ける。そしてそのカレンダーのページは翌年になってもその翌年にも、大切に壁を飾り続ける。
 そういう土地で一年に一度確実に薬を飲ますということは、至難の業だ。ニューヨークや東京の灯火から遠く離れて、ほのかなランプと星空の下で働く現地職員こそ、この賞をもらうべきなのだ。
 十二時に友人のロビンソン・陽子さんがサンフランシスコから来てくれたのでいっしょにホテルでお食事をしてから、私は着物に着替えて、カーネギー・ホールヘ。ここでは「歌でデビューしなきゃ」などと冗談を言う。
 二階の落ちついた部屋で、ピアノの伴奏付きでまず皆さんとお話。それから賞として、スチューベングラスで出来た橋型の置物を受ける。その後英語の短いスピーチ。ブルキナファソの田舎で四十代の患者に会い、失明までの体験談を聞かせてもらった時、同行の日本の新聞記者や雑誌編集者たちと、お礼に「夕焼け小焼けの赤トンボ」を歌った話などをした。
 ちょっと苦労したのはスピーチテーブルの灯がつかないので、暗くて原稿が実に読みづらいのだ。カーネギー・ホールあたりでもこういう不備が放置されている。日本ではありえないことだろう、と思う。でも皆さんが来てくださって、温かい楽しい会だった。
 七時から、ホテルの上の部屋で、ニューヨーク駐在の日本人記者の方たちと、夜十一時半までほんとに気楽に飲み喋った。
 
二月十一日
 十二時の飛行機で帰国。
 本当は成田から上野の寛永寺に廻り、故笹川良一前日本財団会長のお墓におまいりして受賞のご報告をするつもりだったのだが、お寺は、冬場は五時に門を閉めてしまうという。仕方なく、財団へ寄るという尾形理事に、スチューベングラスの賞と、私が用意してもらってあった赤いバラ三輪を(女性が男性の墓を訪ねる時は、一輪の赤いバラがいい、と私は秘かに心に決めているのだ)日本財団の笹川陽平理事長の部屋にある前会長のお写真の前に、お供えしてください、と頼む。
 夜、十四時間の飛行機の旅のこりをマッサージでほぐしてもらう。あちこち、コチコチ。人間コチコチになっている時には、ろくなことを考えない。
 



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