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観光客の死角 シンガポールヘの旅行者は、まず飛行機である。チャンギ国際空港の発着は一年にのべ七万八千機。千八十万人の人々が、滑走路二本で二十四時間営業のこのハブ空港から、シンガポールに入国する。遠くてしかも使い勝手の悪いわが成田空港などは、この便利さにはとうてい及ばない。タイのバンコクからマレーシア経由の鉄路もあるが、週一便の国際特急で三日がかりだから、よほどのヒマ人でなければ無理だ。船で、世界最大級のシンガポール港に入る人も多いが、日本人はほとんどいない。 だから、年間、百万人を超す日本人旅行者は、この国を訪れても、マ・シ海峡を見聞する機会がない。マ・シ海峡とは、マラッカ・シンガポール海峡の略語だ。日本の運輸関係者は、そう呼んでいる。マラッカ海峡なら聞いたことがあるが、シンガポール海峡は知らない??という人々がほとんどだろう。マラッカ海峡とは日本が中東から買いつけた原油のオイルロードである。この海峡は、マレー半島とスマトラ島の間の海域で全長千六十キロ、このうち、地図でみて、一番下の、そして一番右側の九十キロをシンガポール海峡というのだ。 中東の原油がインド洋を通り、マラッカ海峡に入り、シンガポールに向かうと狭くなる。領海すれすれに航行して、南シナ海に抜けるこの海峡は、シンガポール旅行者にとっては死角である。というわけで、日本で発行の旅行案内書のどのページを繰っても、「マラッカ・シンガポール海峡」なるものは掲載されていないのだ。 だからこそ、シンガポールで、この海峡を実地に見聞することは、価値があろうというものだ。たまたまこの地で開催された東アジアの安全保障の国際会議で、同席した退役アメリカ海軍大将・元第七艦隊司令長官、元NATO軍最高司令官、ポール・ミラー氏を、マ・シ海峡見学ツアーに誘った。 「ホウ。マラッカ海峡は、十年ぶりかな」。横須賀を母港の一つとしている第七艦隊の元親玉は、二つ返事で応じてくれた。われわれ一行を迎えてくれたのは、日本海難防止協会シンガポール事務所長の川上直実氏、シンガポール日本船員センターの金子昭治氏らだった。日本財団は一九六八年以来、日本の原油輸入のシーレーンの要所であるマ・シ海峡の航路保全のために合計九十三億円の援助をしている。まず海図作りから始めたという。この海域は、十八世紀以来、オランダと英国が、東西交易をめぐって海の覇権を競った場所であり、両国の海図は不整合だった。どちらの海図を頼りにしても、暗礁が多く、海底の地形が複雑で、潮流の速い海の難所を、十五万トン以上の大型タンカーが安全航行するのは、おぼつかなかったという。 六つターミナルのある世界屈指の良港シンガポール。客船用のマリーナ埠頭から、小さな遊航船でシンガポール海峡の難所めぐりをする。「こんなかわいらしい船で、私が海峡を航行するとは、想像もできなかったね。有難う」。ミラー大将はご機嫌である。「ようこそ提督。四つ星の大将旗を船尾にかかげたらもっとよかった」。シンガポール人の船長が、そう歓迎の辞を述べる。ミラー提督は何度かシンガポール軍港に入ったことがあるという。艦種については口を濁したが、多分、原子力空母かイージス艦だったろう。
年に二万隻の日本タンカーが 「われわれの日常の仕事は、敷設した浮標や、無人灯台の管理と補修ですよ。時々、大型船の当て逃げがあるんです。そうなると、太陽電池が破壊され、夜間、光を発しなくなる。日本製の電池は二十年も寿命がある。付着した鳥の糞やスモッグの煤を拭いてやればですね」と川上さん。それが結構手間のかかる仕事だという。海は右側通行である。マレーシア、シンガポール、インドネシア三国と協議して、分離通航路を決めた。シンガポール沖の、名も知らぬ島々(もちろん名前はあるが、私が知らないだけだ)をはさんで、北側はインド洋行き、南側は東シナ海行きとなっている航路もある。それでも、たまに衝突事故が起こる。 シンガポール海峡は、年に何隻の船が通過するのか。実はそれがはっきりしないのだ。シンガポール港に入港する隻数は、もちろん統計がある。年間十一万隻だ。だが海峡を素通りする船については、高速道路のゲートのように通行税を徴収するわけではないから、いまのところ統計がない。灯台で目視したら一日三百隻、という調査結果はあると言う。それも二十四時間、監視しているわけではないので、もっと多いはずだと川上さんはいう。 日本船は、年間約二万隻、タンカーが多い。サウジアラビアから横浜まで十八日間。これがシンガポール沖を通らずにロンボク海峡経由だと二十一日間かかる。そうなると運航経費が一隻につき三千万円よけいにかかる。 もう一人の案内役の金子さんは、シンガポール在住十年以上の水路の専門家である。クルーザーからタンカーの船団を見物しようと思ったのだが、あてがはずれた。遭遇するのは、インドネシアの小さな漁船、というより船外エンジン付きの釣り舟だけだ。 「土曜日の午後ですからね。残念でしたね。早朝においでいただければ、二十万トン級の大型タンカーの行列が見られます。なにしろ海の難所ですから。視界のよい朝のうちに通過してしまうのです」。金子さんはすまなそうにいうのだ。 金子さんの話によれば、船長三百メートを超える巨大なタンカーは、波高五メートの波を起こしながら通過していくという。カヌーや船外機付の小舟は、転覆することもあるそうだ、インドネシアの漁民は、海峡のスマトラ側のマングローブの漁礁で獲った魚をシンガポールやマレーシア人に売り、米や布などに替える。獲った魚は炎天下で、半日が腹がふくらんでしまうので、海水で冷やしつつ大急ぎで洋上の取引をすませ、日没前に帰途につく。われわれ一行の遭遇した釣り舟は、まさにその種の帰り舟だった。 この海峡を東西の通路と見たてたのは、中国、インド、欧州の三角貿易を開発した十七〜十九世紀のオランダ人と英国人、そして原油やコンテナのシーレーンとして重宝している今日の日本、韓国、中国である。しかし、古代、中世のこの海峡は、マレー系民族によるスマトラ⇔マレー半島の南北の通路だった。 「そう。よく気がつきました。そのとおりです。海事にたずさわる人間がこんなことを言うのはなんですが、海を畑と考える者は、この海峡を南北の通路と思い。道路と考える立場の国は東西の近道とのみ考えてしまう。そこが難しいところです」 統一海図作りのために、北スマトラの遠浅のマングローブの漁礁を調査し、漁民の生活にも直接触れた経験をもつ海峡の航路整備の草分けである金子昭治さんの言は、文化人類学者のような重みがある。元第七艦隊司令長官も、通訳に耳を傾け感慨深げだった。国際政治学者風に言うならば、巨大な近代の文明という強者と、細々と続く土着文化という弱者との、“小さな文明の衝突”、それがマ・シ海峡で日々起こっているともいえる。 だから、大型タンカーの通行はけしからんとか、漁民の生活の保護を優先せよ、といった調子の短絡的な結論は導かれない。でも日々五メートの高波に翻弄される土着漁民の存在は、中東原油に八○%依存し、この海峡のある意味では最大の受益者である近代工業大国の日本人が、頭のどこかに置いてもよい話ではある。
“野蛮でない”海賊の名所 マラッカ海峡は、海賊が時々出没することでも有名である。 金子さんにもらったシンガポールの英字紙に特集記事が載っていた。新聞によると、この海峡では、少なくとも週に一回は商船や遊覧船が被害にあっているはずだという。でも海湾当局への届出はそれほど多くはない。被害額もさほどではなく、人命が損なわれるに至っていないからだ。 海賊は外見上、暗黒色の二〜五人乗りの高速船で夜陰に乗じてやってくる。ナタやナイフで武装して船長室に忍び込む。現金や時計、ラジカセなどを略奪する。ただし乱暴したり、殺人などはやらない。新聞には「CIVILIZED PIRATES」(野蛮でない海賊)と書かれていた。 その晩、ウオーターフロントの海鮮料理屋で、マ・シ海峡の海賊談議に花が咲いた。 「彼らは土着民でしょ。よそ者が海峡を無料で通過させてもらっているのだから、通行税と思えばいいじゃない。人命にも影響はないし。武器は使用せずに、見つけたら船員たちが放水して追っ払う。粋なはからいだと思うよ」と私。 これが失言だった。 「暢気なことを言っていただいては困ります。野放しにしておけば、もっと重大な事件に発展しますよ。そもそも航路の安全というものはですね……」と、海の男あがりの同行の日本財団前田晃・海洋船舶課長や、川上所長から猛反撃を食らった。 くだんのミラー提督は、終始ニコニコ。米海軍としての公式見解を開陳するには至らなかったが、やはり法と秩序派に属していることは言うまでもない。 一八一九年、東インド会社副総督の英人、スタンフォード・ラッフルズが開発したシンガポール海峡、今日の最大の受益者が英国ではなく日本であるとは……。歴史は遠くなりにけりだ。
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