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著者: 曽野 綾子  
記事タイトル: 因果関係?「刺激」の反応は人さまざま  
コラム名: 自分の顔相手の顔 290  
出版物名: 大阪新聞  
出版社名: 大阪新聞社  
発行日: 1999/11/29  
※この記事は、著者と大阪新聞社の許諾を得て転載したものです。
大阪新聞社に無断で複製、翻案、送信、頒布するなど大阪新聞社の著作権を侵害する一切の行為は禁止されています。  
   このごろの若い人は新聞を読まなくなったというけれど、私は新聞ほどおもしろいものはない。新聞がある限り、小説が書けるような気がすることもある。そして多分、私が老化するとしたら、まず新聞を読まなくなるか、読んでも意味がわからなくなる、という形を取るだろう。
 投書欄を読むのも楽しい。
 子供の時、父親から暴力的な行為を受けて成長した人が、自分もいつのまにか娘に暴力的なしつけをするようになっていた話を最近読んだ。或る時、娘を殴ろうとした手が、壁に当たってしまう。すると幼い娘は母親の手を取って「おてて、痛い、痛い」とさすってくれる。その時以来、その人から、子供を暴力でしつけようとする性癖がなくなる。そして自分は「娘に育てられた」と思う。
 私も父親の暴力を受けて育ったが、その結果、暴力だけは振るわなくなった。もっとも代わりの悪いことはちゃんとしている。表情が意地悪くなったり、嫌味を言ったり、ふて寝をしたりするのである。しかしかっとなって皿や植木鉢を投げたり、障子を倒したりすることはしない。後始末が大変だと骨身に染みて知っているからだ。皿が割れれば破片を、植木鉢が割れれば土を片づけねばならない。障子の桟が折れればちょっとした「ものいり」だ。
 人間というものはおかしなもので、似たような刺激を受けても、決して同じ反応を示さない。或る種のタイプの後遺症が多発することはあるのだろうが、それにも大きな個人差がある。ほんとうに人間を育てるには、一人一人に違う結果と違う年月の長さがかかることを、謙虚に知るべきなのだろう。
 作家で締切りを守らない人はいつもいる。昔のように小説の連載をファックスやEメールで送るような便利な手段がなかった頃、係の記者や編集者は、締切りに遅れがちな流行作家の家に通って原稿を取っていたのである。
 新聞小説の係になって、半年家に帰ったことがない記者の逸話も聞いたことがある。夕方「先生」のうちに行くと、原稿を取りに来ている編集者や記者が大勢いる。麻雀をしたり夕飯を食べさせてもらいながら、自分の社の原稿のできるのを待つ。夜半過ぎ、やっと原稿を受け取ると、そのまま社へ上がり、入稿し、仮眠し、少し別の仕事をしていると、また夕方になる。それで再び受持ちの作家の家に行く。かくして半年家には帰らなかった、という「伝説」ができるのである。
 しかしそういう過酷な思いで連載が終わった時の充実感は、私のようにわりと律義に原稿を渡した者には相手に贈れないほどのものなのだ。もちろんこういう流行作家の係になるより、ほっておいても大体期日になると出来上がる私のような作家の係になる方が楽だ、と考える人もいるだろう。しかし苦労したからこそ楽しかった、という図式は、世間のどこにでもある。簡単に因果関係の答えを出せないところが人間のおもしろさなのである。
 



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