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著者: 曽野 綾子  
記事タイトル: ブルータスの兄弟  
コラム名: 昼寝するお化け 第168回  
出版物名: 週刊ポスト  
出版社名: 小学館  
発行日: 1998/12/04  
※この記事は、著者と小学館の許諾を得て転載したものです。
小学館に無断で複製、翻案、送信、頒布するなど小学館の著作権を侵害する一切の行為は禁止されています。  
   北朝鮮の人たちは、食料不足で食べ物にわらを混ぜて食べているという。ほんとうに気の毒で胸が痛む。私たちは日本に生まれたというだけで飽食していられることを思うと、人間には運というものがあるとつくづく感じないわけは行かない。運を感謝し、幸運を少しでも周囲の人に分けることが当然だと思う。
 しかし北朝鮮の人たちには、現実問題として分けようがなさそうだ。持って行っても、末端に届くかとうか一般人が見守ることが許されていないからである。
 黙って預ければ、政府高官、軍の有力者などが、必ず取ってしまって私腹を肥やす種にするだけだろう。こういう推測は援助の世界の常識で、それを防ぐ厳密な手立てをしない限り、どこの国に援助しても、泥棒に追い銭になる。
 数年前から、フジモリ大統領の要望に応えて、日本財団はペルーの各地に小学校を五十校建てる事業を始めた。来年ですべての計画が完了するのだが、一昨年その計画がどれほど進んでいるかを見に行った。その時山奥の村で、大統領が專用のヘリに積んで行った衣服をご自分で村人に配られる場に居合わせた。
 私もお手伝いをして、初めは受け取りに来た人の性別や年齢に合いそうなものを捜して渡そうとしたのだが、数百人もの人たちになると、限られた時間内にとてもそんなデリケートな配慮ができない。
 大統領はご自分でもほいほいと気楽に渡しておられたが、それが子供に男もののジャケットだったり、大人の女性に子供のセーターだったりしたので初めはちょっと心配した。しかし後でその理由を大統領自身の口からお聞きしてよくわかった。
 村長に一括して渡したこともあったのだが、そういうやり方だと何ももらっていない村人が出る。だから、とにかくもらいに来た村のすべての人一人残らずに、何か渡してしまう。たとえ、もらうものが少し食い違っていても、後で村人同士は自分に合ったものと交換するから、確実にすべての人が何らかの恩恵に浴するのである。フジモリ大統領のヘリに積まれていた衣服は、全部が新品であったことが印象的だった。
 途上国に対する援助の物資は、あらゆる人が盗む。大臣も、役人も、医者も、神父も、学校の先生も、看護婦も、ケースワーカーも、ほとんどすべての人が盗むと考えていい。そして地位の上の人ほど、盗む率も大きくなる。そのお目付役、というか、配給専門の組織を作るべきだと時々思うことさえある。
 しかし食料不足が言われる北朝鮮やソ連ではっきりしたのは、二十世紀においては社会主義を信奉した国こそ、専制的で巨大な権力を持つ特権階級と独裁者を生み、その人が、精神的にも、物質的にも、人民を圧迫し、犠牲を強い、生活を貧困に追い詰めたということだ。
 中国が経済的に豊かになり、思想的に自由になったのは、社会主義が最早名目だけで、実質的には自由主義経済に移行してから後のことである。
 二十世紀で、宮殿を建てた人は私の知る限り一人しかいない。それも金塗れのはずの資本主義社会からは一人も出なかった。資本主義社会で話題になった金持ちは大勢いるが、彼らが建てたのは精々で「豪邸」であって、宮殿など、遂に誰一人として建てる力はなかったのである。
 たった一人、二十世紀に宮殿を建てる力を見せたのは、貧しい社会主義国、ルーマニアの独裁者、殺されたチャウシェスク大統領であった。
 贅を尽くしたチャウシェスク宮殿を、私はまだ完成していない時に見学したが、ほとんど無制限の国費と、強制的に総動員した技術の結晶である宮殿は、チャウシェスク亡き後でも継続して建築を続け、完成させ、観光資源に乏しいルーマニアの名所にしなければ、と感じたことを今でも覚えている。
 ワーグナーに入れ挙げて音楽三昧の暮しをしたルートウィッヒ二世は、恐らく当時は評判が悪かった王さまであろうと思われるけれど、今ババリア地方の人は道楽王さまの残したお城の観光で食っている。それと同じことを期待したのである。

「欠けたことのない状態」など現世にはない
 そうした専制君主的な権力者を許した社会主義を、日本のマスコミは長い間賛美して来た。その人たちの責任はどうなるのだろう、と北朝鮮の食料難のニュースを聞く度に思う。社会主義を賛美し続けたのは、朝日新聞社と岩波書店を代表とする日本のマスコミ、日本共産党、旧社会党などだが、これらの組織に属する人々は、誰もが、社会主義の非人間性に些かの疑問も抱かなかっただけでなく、旧日本の戦争責任に対してだけは執拗に謝罪しろと要求して来た。しかし自分たちが犯した眼の無さや、国民の言論を弾圧するような勢力に対する無批判な支持を謝罪する姿勢は見せたことはなかった。
 人間は誰でも間違いを犯すのだから、私は人に謝れという趣味は全くないのだが、強大な権力者を許した社会主義を支持した人々が多くいたことは、折りあるごとに思い出して心に刻むべきだろう。
 資本主義が完全だというのではないことも、ここで明らかにすべきである。いかなる思想も政治形態も、欠陥だらけか、隙あらば堕落の方に傾く。
 ヘブライ語では、「こんにちは」に当たる挨拶を「シャローム」と言うが、それは普通「平和」と訳されている。しかしもっと正確に言うと、「シャローム」は「欠けたことのない状態」を指すのだという。何一つ欠けたことのない状態など此の世にあるわけはないのだ、ということを認識するのは偉大な叡知である。私たちはただ「より良い」と思われることを選んで生きる他はない。「最上の選択」と言っても、それは自分の立場や能力、その時の社会的な状況の中で許される範囲の中での最上、に過ぎない。
 ユダヤ人は、つまり「平和=欠けたことのない状態」などどいうものが、現世にはないものだ、ということを骨の髄まで知っていたのだ。だからこそ、「それほどにすばらしいものを、あなたに贈ります」という思いが込められた挨拶をするようになったのである。
 しかし日本人は、平和は望めば簡単に叶えられるものだ、と思っている。この落差はどうしようもない。ユダヤ人は苦労人の大人で、日本人は苦労知らずのお坊ちゃまという感じである。
 どこの国でも、貧しい国ほど泥棒がいるから援助物資が送れない。それほど悲しく困ることはない。かくして貧しい国の人は更に援助の恩恵から遠ざかり、信用できる先進国はずっと豊かさを保ち続けることになる。
 日本人は、今はこれでも順境にある。逆境になれば、簡単に、盗み、殺人、誘拐、掠奪、破壊活動もするだろう。日本人は大丈夫、という保証はどこにもないのである。
 



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