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著者: 曽野 綾子  
記事タイトル: ハイチ・レポート  
コラム名: 夜明けの新聞の匂い 1996/10/08  
出版物名: 新潮45  
出版社名: 新潮社  
発行日: 1996/11  
※この記事は、著者と新潮社の許諾を得て転載したものです。
新潮社に無断で複製、翻案、送信、頒布するなど新潮社の著作権を侵害する一切の行為は禁止されています。  
   J・Cさま
 ワシントンで行われた世界飢餓会議の二日目、朝食会でお話しいたしました時、あなたは私が会議の後、ハイチヘ入ることを聞かれると、私に報告書をほしいと言われました。
 あなたはお立場上、最高の情報を得ておられるとは思いますが、情報は多いに越したことはありませんし、人によりますが、作家は時にはかなり有能な情報提供者にもなり得ます。なぜなら、観察こそ、私たちの命だからです。それでお約束通り、報告をお送りすることにいたしますが、申し上げるまでもなく、一作家の見たハイチ情勢として気楽にお読み捨て頂きたく存じます。
 第一になぜ私がハイチヘ入る必要があったかと申しますと、私は二十五年前から、海外邦人宣教者活動援助後援会というNGOの救援組織で働くようになりました。年間予算は四千万円から四千五百万円。寄付は百パーセント日本人の個人です。会社や他の組織からのお金は一円もありません。日本では寄付をすることによって免税の処置を受けることがなかなかむずかしいので、それらのお金はすべてささやかな市民の犠牲によって与えられたものばかりです。
 支援した先でお金が漏れることを防ぐために、私たちは援助先をカトリックの宣教師たちが、実際に現地に入って働いている場合のプロジェクトに限っています。つまり日本人の神父か修道女が、実際にその場にいてお金の支払いもその後の管理運営も監督できる場合に限っています。
 ハイチでは内陸部のエンシュという町に、無原罪の聖母宣教女会に属するシスター・本郷幸子が入って貧しい子供たちの教育をしています。私たちはそこへ今までに二万五千ドル余りを送りました。私はここ数年、自分で送り先の評価に歩いていますので、ハイチにも入る必要があったのです。
 私たちは首都、ポルトー・ブランスで、前大統領アリスティッド氏の夫人をお訪ねしました。前大統領とは、日本でお眼にかかっておりました。元神父でいられたこともあり、私は作家として興味を持ちました。その会見の時、私は「失礼な質問をいたしますが、あなたは、大統領と呼ばれるのと、神父と呼ばれるのと、どちらがお好きですか?」と伺いました。するとアリスティッド氏は、
「どちらでも。ファーザーと呼ばれる場合にしても、国民の父でもありますし、近く生まれて来る子供の父でもあるのですから」
 と答えられたのです。知人の一人によれば、アリスティッド氏は、大変スピーチのうまい方で、恐らくいい意味でだろうと思いますが、殊にアジテーションの技術は大した方だということでしたが、普段の会話は静かな方でした。その日はちょうど前大統領の四十二歳のお誕生日に当たっていたので、私は個人的に小さなお祝いをお持ちしました。
 今回、ポルトー・ブランスでは、前大統領はお留守ということだけは知っていましたが、夫人は臨月のお体にもかかわらず、私たちを待っていてくださいました。立派なお屋敷でした。門のはるかかなたに白亜の邸宅が見えました。後に私たちが訪れることになるスラムとは、雲泥の差ですが、アリスティッド氏は、蓄財の才能も非常にある方という評判ですし、ハイチの人たちも指導者は豪邸に住むものだ、言葉を換えていえば、貧しげな指導者などあり得ないという感じだそうですから、それはよいことなのでしょう。
 アリスティッド邸で、私たちは前大統領と夫人によって準備されていたボディ・ガードをつけられました。日本大使館からも、情勢があまりよくない、という報告がありましたが、土地に入りこんでいるシスターからは、危険だから来るなという事前の忠告もありませんでしたし、私も訪問を止める気持ちは全くありませんでした。
 アリスティッド家を訪問したのは「民主主義のためのアリスティッド財団」が経営しているストリート・チルドレンの施設「ラファンミ・セラヴィ」を見てもらいたい、という要請があったからです。
 既に男の子は百八十四人が収容されていましたが、女の子の方は始まったばかりで、まだ四十二人。どちらも、古びて荒れた「ブルジョワ」の家を改築したものでした。それはそれらの家が、前方や後方に子供たちが遊べるような十分な空間があったからだそうです。
 私は今までにブラジル、ポリピア、ペルーなどで、カトリックの修道院の経営するストリート・チルドレンの家を見ました。ご承知のことと思われますが、これらの子供たちは、親に捨てられた子でもあり、親を捨てた子でもあります。一間きりの貧しい家で、父親が酒に溺れて暴力を振るったり、母親が麻薬の味を覚えて売春したりしていれば、子供たちは親を捨てる他はないでしょう。
「ラファンミ・セラヴィ」はまだ設備が整っていない、というか、荒れ果てた感じでした。電灯もろくろくついていず、掃除も完璧ではなく、子供たちは一日に三度食事はしていますが、その夜はパンとジュースだけでした。もっともあなたもご存じの通り、何か食べ物をお腹に入れて眠れる子供は、それだけで幸せ、という社会はまだ地球上にたくさん残っているのです。
 私たちが、サッカーとラグビーのポールをプレゼントすると、それまでオモチャや運動具というものの気配もなく夕闇の中で遊んでいた子供たちの眼が、突然きらきら光ったように感じられました。子供たちはすぐに集まってきました。サッカー・ポールの方にあぶれてしまった子は、ラグビー・ポールに集まりましたが、彼らはちゃんと正式なプレイの仕方も知っていました。
 その翌日、私たちはシスター・本郷が手配してくれた二台の四輪駆動車でエンシュに向かいました。私たちの旅程がことに危険視されたのは、エンシュが、・反政府ゲリラの根拠地だったからではないかと思います。しかしシスターに言わせると、今では彼らは土地の人々からも嫌われており、それを避けてポルトー・ブランスに出て行ったりしてしまったということです。私はついでにブードゥー(アフリカ起源のハイチの民間宗教)の動きも気になったのですが、それを信仰している人たちの家には、目印の旗が上がっており、シスターたちの普段の仕事や生活では、ブードゥーを意識する必要は一切ないということでした。旗印を上げるというのは、既に無意識で秘密の宗教ではなくなったという印ですから、歓迎すべきことに思われました。
 しかし悪路はひどいものでした。車は石の階段を登るような道を喘ぎながら行くこともありました。ポルトー・ブランスとエンシュとの間はたった百三十キロというのですから、それだけに六時間かかるという事実を最初はどうしても理解できなかったものです。結果は、やはりマラソンの世界的な選手より、日本の四輪駆動車の方が遅かったという皮肉な結果になりました。ただの一回も故障もパンクもしなかったにもかかわらず、です。また「途中で故障車があると危険だ」という日本大使館の説明を、私は一時期のマレー半島のゲリラが風倒木で道をブロックするような危険と解釈したのですが、事実は全く別でした。
 トラックは古くて整備が悪い上、積載重量制限を超過し、積みつけも正しくないために、初めから傾いて走っています。バスも人が車体の外にぶら下がっています。それはまるでスリルを楽しんでいるみたいです。そのような車が軟弱な路肩にさしかかるとすぐ横転します。一台が横転すると、反対側の車線を走って来る車はその地点を無理に通ろうとして、もっと脇へ寄ることになりますから、それも横転する。同じ地点で上下線が同時に横転する事故が簡単に起こることになります。往きには片道の事故だけを見ましたが、帰りには今申し上げたような上下線の事故が完全に道を封鎖していましたので、私たちはエンシュから北上してカップ・ハイチエン回りでポルトー・ブランスに帰り着きました。その日私たちは約十二時間車に乗っていたのです。
 シスターは自分が着任した一九八七年頃と昨年帰国した時との山の印象の差を話してくれました。ポルトー・ブランスのすぐ北の山脈は、昔は緑が濃くて、日本のようだと感じたそうです。それが数年の間にすべて木が燃料用に切られて「砂漠」のようになっているとシスターは言いました。事実、その平原にはサボテンの群生が見られ、土地に保水能力がなくなっていることを示しています。
 エンシュでは、シスターは学校へ行けない貧しい子供たちに、食事を与えながら教育していました。今は三十人くらいで、私たちは彼らに年一人当たりたった五十ドルの昼食代を出しています。先生二人分の給与も払っていますが、それも一人当たり月四十ドルです。私たちがいる間に、カナダの民間組織が今まで受け持っていた年間五万五千円ほどのお米代を、今年から出せなくなったと言って来たので、それも引き受けることにしました。
 私たちはスラムの個人の家も訪問しました。家の中からみると壁は泥を塗り固めたものでもちろん電気はありません。家具というのは、ベッドと、今にも壊れそうな食事用のテーブルくらいですが、椅子も人数分だけあるというわけではありませんから、家族はお腹が空いた時にてんでに食べるか、子供は床の上に坐って食べるのでしょう。
 屋根の上にあらゆるポロを載せた家もありました。そこの家では、長男がまだ十四、奥さんは病弱で働けないのだそうです。どうして食べているのかと言うと、長男が少し畑を手伝ったり、自分の家の前で土工事をしている男たちのために、ハイチではどこでも毎日食べている油入りの小豆ご飯などを買いに行ってやって、そのお駄賃で生きている、らしいのです。今日、世界的に最下層の生活では、収入はどこでも大体一日一ドルということはここでも同じです。それで五人から十人くらいの家族がどうやら暮らしています。
 一人の少女はもう十歳を過ぎていると思われましたが、シスターの生徒で、しきりにお医者に連れて行ってくれ、とせがんでいました。よほど辛いのでしょう。恥ずかしげもなく、シャツをめくって、自分のお臍を見せました。お臍はソーセージのように太くぶら下がっていて、しかもそれが膿んでいました。
 この子は孤児でした。そして彼女は、このスラムで「女中」をして生きているのです。スラムの人たちが、更にこうした女中を使うことを日本人は信じられません。もちろん現金の給与などないでしょう。ただ食べ物と、時々古着を与えるだけだと思われます。
 こうした世界の貧しい国々には、かつての植民地時代の宗主国のやり方を、憎むどころか、その通りを真似したいという欲求が強烈に残されていることがあります。ハイチが独立したのは一八〇四年、中南米初の独立国でした。もう二百年近い歴史があるのですが、植民地の痕跡はまだ心理的に消えていません。
 ブラジルのストリート・ガールたちを集めた施設でも、日本人のシスターたちが子供たちに掃除することを教えようとすると、「掃除は女中の仕事よ」と反発されるのにショックを受けていました。
 ポルトー・ブランスの町中に戻ってから、私たちは交差点で信号待ちをしている時、後の荷台から私たちの荷物を盗もうとしたチャリンコの一団に会いました。その気配をいち早く察して、飛鳥の如く車を下りて盗品を奪い返して来たのは六十九歳のシスター・本郷でした。チャリンコの一人は、稼ぎを取り上げられたことを怒って、シスターの腕時計をむしりとり、かけつけた日本人の顔を殴りました。
 ハイチ人には良心というものがない、と言った人もいます。カトリックの施設で働く忠実そのもののような青年が、教会の車のガソリンをこっそり売ったりしています。その笑顔の素晴らしさは、彼の陰の行為など匂わせもしません。そしてハイチ人自身、決してお互いを信じていない、という言葉も聞きました。
 しかしニューヨークに戻ってから、私はまた素晴らしい言葉を聞きもしたのです。
 私の知人の日本人の一人は、かつてアフリカの或る国で生活をしたこともあるのですが、こう言いました。
「ハイチから出て外国で働いている人たちは、皆、自分の国をどうにかしなくてはならない、と感じている。それは私の住んでいたアフリカの国では全く見られないものだ。だからハイチには明日がある。希望もある」
 あなたも深く係わられたハイチに、明るいきざしが残されていることを願うばかりです。
 今回の会議でも、あなたのお働きに対して、誰もが強い印象を受けました。私たちの日本財団が、あなたと協力して、アフリカの飢餓を減らすために働けることは大きな歓びです。ご健康にご留意の上、大きなお仕事をなさってくださいますことをお祈りいたします。
 感謝をこめて……。
 一九九六年十月五日                     曾野綾子
 



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