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私は五十二歳の年にサハラ砂漠を縦断した。パリを出発して象牙海岸まで約八千キロ、三十五日間。四駆二台。電気と機械の専門家を含めて六人はすべて運転と何らかの語学が出来るのが条件であった。 パリ?ダカール・ラリーがテレビに映る度に、私はいろいろな感慨を持って眺める。何よりもその運転の技術はすばらしい。砂漠には道がない。どこを走ってもいいのである。その代わりどこにでも岩と深い砂の部分が隠されているから、運転は砂を読むことに尽きる。 私たちのコースはラリーと違って、普通の旅である。国としてはアルジェリアの南端で砂漠に入り、マリの北端で砂漠を脱するような形になった。 南北行のために、砂漠には十キロに一個ずつ、人の身丈よりも大きなコンクリートのメトロノーム型の標識ができている。しかしそれでは次の標識が視界に入らない。だから砂を入れたドラム罐が、二、三キロに一個ずつ置いてある。それが指に刺さった刺(とげ)のように見えている。運転者はひたすら砂を読み、助手席の人が、時計標示で「ドラム罐、十一時の方向です」と言うように指示を与え続ける。 サハラの南下ルートの多くの部分は、三百六十度、何もないまっ平らな空間であった。砂は優しいサーモンピンクで、その上に軽い玉砂利のようなものが散らばっている。だから私のような素人でも、軽く時速百二十キロは出る。しかしそのような速度は厳重に押さえねばならなかった。経済速度を守らないと、ガソリンを食うからである。 ラリーのテレビが映ると、彼らは何と贅沢なのだろう、と私は思う。彼らがその日の泊まりの場所に着くと、既に眠るためのテントは張ってあり、食事はできている。顔を洗う水、体を拭く水くらいはあるのだろう。何より修理班が待ち構えており、ガソリンもそこで補給すればいいのだ。ラリーは速度と高度の運転技術を要求されるのだが、砂漠の中で生きる姿勢としては、つくづく「お坊ちゃまだなあ」と思う。 サハラを縦断する場合、中央部には一四八〇キロ、水とガソリンのない部分がある。つまり全く無人の空間である。その部分を自力で乗り切るために、私たちは水もガソリンも食糧もすべて自分の車につけて走らねばならない。長距離トラック用の大型タンクを室内に設置し、軍用携行罐六本を屋根やバンパーに載せる。これと自分の車のタンクとで大体四百リットルを持つ。それでまかなうのだ。 私は五日間、歯も磨かず顔も洗わず着替えもしなかった。砂漠の乾燥の中では少しも気持ち悪くない。入浴や着替えのために使っていたすべての時間を、ノートをつけ、文明とは何かを考え、流れるような満月の月光に洗われながら眠った。無事に帰るまでの間、私たちは徹底して砂漠に対する畏敬を抱き続けた。私は生き残るための技術を身につけた。それが砂漠のくれた最大の贈りものであった。
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