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昔はほとんど意にも止めなかったことの一つに、見舞い、というものがある、と最近しきりに感じるようになった。昔は、行ければ行く。義理で行く。どちらかの感じであった。 しかし今はそうは思わない。見舞いというものは、かなり大事な人生の仕事ではないかと思う。 相手が病気で、自分で今は健康としたら、それは偶然なのである。人生は公平ではないのだ。人生の公平を願っても、恐らく未来永劫そうはならないだろう。 しかし不公平としたら、自分の手で、それを均すようにするのもいい。もし病人が退屈しているなら、そして社会から脱落し、忘れ去られはしないか恐れているなら、最低限、そうではない、ということを示すために訪ねるのは、実に人間的な仕事である。 修道院には当然、高齢や病気の神父や修道女がいる。その人たちにとっても病気は幸いものなのだ。もう働けないだけでなく、人の世話を受けなければならない。 しかし一九四一年、アウシュヴィッツで他人の身代わりになって、餓死刑を受けて死んだマクシミリアノ・マリア・コルベ神父は、自分がたてた修道院の中で、誰よりも病床に着いている人を大切にした。毎日ゆっくりと見舞い、言葉をかけ、その上さらに仕事を与えた。どんな仕事かと言うと、働いている他の修道院の仲間たちの為に祈ることであった。昼間働いている健康な者は、どうしても祈る時間が減ってしまう。修道士の中で、靴屋や仕立屋をやっている人は、毎日長時間働かねばならないからである。しかし病床にある人なら、時間がある。他人の分まで祈ってください、というわけだ。祈りは最も大切な行為だと神父は解釈する。だから病人や高齢者に引き受けてもらう、と言うのである。病人に最も重大な働ける場を与えるという発想は、かなり斬新なものであった。 人間にとって最も残酷なことは、「お前はもう要らない」と言われることだ。誰でも病気になり、誰でも年を取るのに、それで差別されるし、自分から差別する人もいる。健康な年寄りなのに、「私は年だからもう働けない」とか「労ってもらって当然」とか、思うことである。 自由な心というのは、現状を直視できるはずである。高齢でも他人のために働けたら光栄なのに、そうしない年寄りがかなりいる。年齢で他人と自分を無力な者だと規定して考えてしまうのである。 生涯教育という言葉はもう二十年近く前から一般化し、かなり徹底した。しかし老人教育というのはまだあまり行われていない。「寿大学」などというものを耳にしたこともあるが、何となく甘い感じのものが多かった。 元気な老人は、病気の老人を支えればいいのだ。もっとも時には役に立たないこともあるだろうが……役に立たない人間は若者にだっているのである。
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