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著者: 曽野 綾子  
記事タイトル: 大切な仕事?元気な老人は働くのが光栄だ  
コラム名: 自分の顔相手の顔 391  
出版物名: 大阪新聞  
出版社名: 大阪新聞社  
発行日: 2000/11/29  
※この記事は、著者と大阪新聞社の許諾を得て転載したものです。
大阪新聞社に無断で複製、翻案、送信、頒布するなど大阪新聞社の著作権を侵害する一切の行為は禁止されています。  
   昔はほとんど意にも止めなかったことの一つに、見舞い、というものがある、と最近しきりに感じるようになった。昔は、行ければ行く。義理で行く。どちらかの感じであった。
 しかし今はそうは思わない。見舞いというものは、かなり大事な人生の仕事ではないかと思う。
 相手が病気で、自分で今は健康としたら、それは偶然なのである。人生は公平ではないのだ。人生の公平を願っても、恐らく未来永劫そうはならないだろう。
 しかし不公平としたら、自分の手で、それを均すようにするのもいい。もし病人が退屈しているなら、そして社会から脱落し、忘れ去られはしないか恐れているなら、最低限、そうではない、ということを示すために訪ねるのは、実に人間的な仕事である。
 修道院には当然、高齢や病気の神父や修道女がいる。その人たちにとっても病気は幸いものなのだ。もう働けないだけでなく、人の世話を受けなければならない。
 しかし一九四一年、アウシュヴィッツで他人の身代わりになって、餓死刑を受けて死んだマクシミリアノ・マリア・コルベ神父は、自分がたてた修道院の中で、誰よりも病床に着いている人を大切にした。毎日ゆっくりと見舞い、言葉をかけ、その上さらに仕事を与えた。どんな仕事かと言うと、働いている他の修道院の仲間たちの為に祈ることであった。昼間働いている健康な者は、どうしても祈る時間が減ってしまう。修道士の中で、靴屋や仕立屋をやっている人は、毎日長時間働かねばならないからである。しかし病床にある人なら、時間がある。他人の分まで祈ってください、というわけだ。祈りは最も大切な行為だと神父は解釈する。だから病人や高齢者に引き受けてもらう、と言うのである。病人に最も重大な働ける場を与えるという発想は、かなり斬新なものであった。
 人間にとって最も残酷なことは、「お前はもう要らない」と言われることだ。誰でも病気になり、誰でも年を取るのに、それで差別されるし、自分から差別する人もいる。健康な年寄りなのに、「私は年だからもう働けない」とか「労ってもらって当然」とか、思うことである。
 自由な心というのは、現状を直視できるはずである。高齢でも他人のために働けたら光栄なのに、そうしない年寄りがかなりいる。年齢で他人と自分を無力な者だと規定して考えてしまうのである。
 生涯教育という言葉はもう二十年近く前から一般化し、かなり徹底した。しかし老人教育というのはまだあまり行われていない。「寿大学」などというものを耳にしたこともあるが、何となく甘い感じのものが多かった。
 元気な老人は、病気の老人を支えればいいのだ。もっとも時には役に立たないこともあるだろうが……役に立たない人間は若者にだっているのである。
 



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