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作家がどういうテーマで書こうとしているかなどということは、聞かれれば答えるのを渋るほどのことではないが、それはその家の夕飯のおかずは何か、という程度のもので、大したことではない。 だから気楽に触れることにするが、私はこれから死ぬまで人間の悪を書くつもりにしているのである。それには深い理由も軽薄な動機もある。カトリックの信仰の中で育ったので、私は悪や死というものの意識の中で育った。「悪を知っている」という日本語は、通常悪いことをしたことがある、という意味だろうと思うが、それ以外にも、悪について認識するという意味を持たせられないわけではない。 悪も??何が悪かということがまた大きな問題なのだが??もしそれが、自分の人生の解釈や「改悛」の動機になれば、大きな意味を持つ。だから「罪は幸いなものだ」という考え方がカトリックには存在するのである。 悪を通した時、初めて人間は、何が善かということを明白に知る。人が殺されると、私たちはその人が生き続けていたら、ということを深く感じて涙する。或いは、病気になると、初めて私たちは健康の意味を知るのだが、病床で深く思索する人にもなるのである。 もちろん人殺しや病気がいいのではない。殺人や病気にも意味がある、などというとすぐ、それなら殺せばいいのか、とか、病気がいいのか、という幼稚な論争が時々出て来るので、すぐ予防線を張る癖がついてしまった。 軽薄な方の動機としては、私はいつでも人がすることはしないように生きてきた。ゴルフが流行る時には、会員権が高くなるから、やらない方がいい。皆が軽井沢に行く時には、千葉へ旅行する方が空いている。今は作家の九〇%が、自分はどんなに人道的に正しいことをする人間かということを書いているから、私は悪を書く方が「空いてていい」と感じるのである。映画館やお風呂屋さんではないのに、私は流行らなくて空いている場所が好きなのだ。 先日たまたま会った或る人は、私とそんな文学論が出ると、こう言ったのである。「私は生涯正しいことをしようとしてきたんです。酒も度を過ごさなかったし、浮気もしませんでした。仕事も意識的にさぼったことはないし、賭け事で浪費もしなかった。あなたは酒や浮気やさぼりや賭け事を皆いいと言うんですか」 一言で言うと、こういう善意の人を前にして、私はその瞬間ちょっと困った。しかしよく考えてみると少しも困っていなかった。 世の中には、いろいろな任務がある。こういうお手本のような生き方をする人と、さまざまな弱さに溺れて穴の底から空を仰いでいるような人と、それぞれにこの世では違う任務があるのだ。人生の偉大な部分を受け持つ人と、弱さを受け持つ人と、みかけは違うが、任務の大切さは同じである。ということを説明するのはちょっと心理的な根気がいる。
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