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三月二日 昼過ぎ、三戸浜の家から畑で採れた水菜を車に満載して東京へ帰る。水菜は二月が一番美味しい。こんなに素人でも簡単に作れるものはない。一袋二百円くらいの種を一袋蒔くと、間引いて行って大株が何十と採れる。ところがこのごろ東京の八百屋さんでは水菜がめったに出ない。場所はとる、漬物にする人がいない、葉が折れ易い、腐り易い、というので、置いても合わないのだろう。 今日は海外邦人宣教者活動援助後援会の会合日なので、普段ただ働きをさせられている人たちに、せめてこの水菜を配って「おねぎらい」にしようという魂胆。運営委員たちは私の大学の同輩・後輩が主なのだが、私の母校の校風は徹底して所帯臭い。「何よ、こんな菜っ葉」などという人は一人もいないで、皆が明日はこれで豚鍋ができるなどと思ってくれるだろう。 でも今日は大ごちそう。日下公人先生の奥さまの玄人並みのお手造りのケーキと、見知らぬ方からまで頂いたチョコレートやお茶がある。 マダガスカルのアベ・マリア産院からの申請は手動で傾斜を調節できる分娩台七十万円。コンゴのシスター・佐野から作物輸送のためのトラック購入費五百万円など。分娩台はすぐ認可。トラックは大体いいのだが、中でちょっと不明な点があるので、それが説明されたら、0Kにする。 マダガスカルを昨年訪問した時、シスター・平間のおられるカトリックの小学校で新しい棟の増設を依頼され、日本財団に申請が来ていたが、日本財団はまだ現状で充分という判断で断った。 それで、私たちの海外邦人宣教者活動援助後援会が、そのうちのトイレの増設だけを引き受けることにした。生徒の数に対してお手洗いが極度に少ないので、生徒たちは脚踏みして順番を待っているらしい。外でしてはいけません、という教育をしている以上、トイレは作って上げなければならない。私たちらしいささやかな規模の仕事ができることが気持ちいい。 三月六日 パラリンピックの記事が新聞にたくさん出るのがほんとうに嬉しい。私は開会式に出たかったのだが、それをしているとどうしても書く仕事が間に合わない。私にとって月初めは仕事が集中する時期なのである。 パラリンピックには、日本財団がお金も人手も出すことができた。ボランティア用のポンチョも何百着か持って行ったはずだ。 友達が電話をかけて来て、パラリンピックの開会式を見ていたら、涙が出たという。自然で明るくて楽しそうで、実にいい開会式だったという。私は原稿でテレビを見ている暇もない。でもそういう人がいてくれて、また嬉しい。 三月七日 朝、六時半家を出て、大阪へ向かう。午前中、住之江競艇場に挨拶に行く。ここは全競艇場の売り上げのほぼ十分の一を上げている。 例によって、一レースに三千円だけ舟券を買う。それが珍しく当たった。五千七百円の配当がつくという。私がいつも当たらないのは有名で、同行する財団の職員の中には、私の買った券をチラと見て、自分は違う数字のを買ってささやかなご愛嬌くらい当てているのもいる。今日は私が当たり券の払い戻しをして貰おうとしたら、広報の若者が「その予定時間は組んでありませんでした」と嬉しそう。 新聞記者二十数人に、財団の近況報告。 それから英知大学で、「兵庫、生と死を考える会」の講演会。死の問題は、一九八〇年代の初めから、まず上智大学や聖心女子大学のようなカトリック系の大学で始められた。まだ世間が死をタブー視して触れない空気が濃厚だった時代に、キリスト教は自由な精神でこの「すべての人に必ず訪れる共通で平等な運命」に対して、アプローチできたのである。会場になっている英知大学もカトリックの大学だから、時流に流されない教育の信念をしっかり持てるだろう。 夜、住之江の関係者と会食。宗右衛門町の芸者さんが珍しく二、三人いて、スターのゆきこ姐さんと「三匹長いのが入っていて七百八十円」の鰻の蒲焼きがけっこうおいしい話で意気投合。「チンはだめよ。蒸せば柔らかくなってけっこうごまかせるんだから」と私。これが高級料亭でする話か、と言いながら、結局マーケットの値段を一番よく知っているのは、お姐さんと私だということがわかった。 三月八日 九時半過ぎの列車で金沢へ。途中眠って、ふと眼が覚めると、加賀温泉付近の雪の山が見えて胸が躍る。こういう土地で生まれた人は、たとえ東京や大阪に出て働いていても、老後は再びこの山の見える土地に帰るべきだ、としみじみ思う。 金沢で下りて内灘町で「老後の本質」という題で講演。雪もなく温かい午後。風が遠くかなたから春の香を持って来ている。私の鼻が動物のようにその気配を嗅ぎつける。 講演の後、友人の家を訪ね、手術をした友達二人にも会う。皆元気になってほんとうによかった。回復期の幸福というものは、ちょっと比べられないものである。
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