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この夏、中国の四川省で九寨溝(きゅうさいこう)という雄大な湖沼地帯を旅した時のことである。このすばらしい湖は標高二千六百メートルから三千メートルくらいに点在しており、どれ一つとして同じような風景がない。鏡のように対岸の風景を映すもの、北欧のフィヨルドを思わせるもの、ただ翡翠色に静まるもの、浅い広大なせせらぎが玉簾のような滝になって落ちるもの、よくもこれだけの変化が一つの地方に集まっていると思うほどである。 成都から四百五十キロの奥なのだが、空路も鉄道もなく、道も整備されていないので、普通なら途中で一晩泊まる。日本人の観光客に一人も一組も出会わなかった土地というのも珍しい。 中国側は、そこを充分に見せてくれたのだが、一つ特徴的なことがあった。それは、「九寨溝の印象はいかがですか?」と全く聞かなかったことである。聞かれる前に私たちが喋っていたということもあるかもしれないが、この九寨溝は一九九二年にユネスコの世界文化遺産に指定されたというが、全く堂々たる世界文化遺産である。これに比べたら日本には、文化遺産と言えるものなど、一つもないだろう、という気分がする。 よく地方に行って一時間もすると、土地の新聞記者が「この土地の印象はいかがです」と聞く。この質問をするかしないかで、その町が田舎かどうかの違いがわかるというものだ。地方都市は、よくよく町や村の人に、こういうつまらない田舎風の質問をしないように訓練すべきだろう。その証拠に多分、京都の新聞記者は「京都の印象はいかがです」などという野暮な質問はしないのである。 人が自分の町をどう思っているかなど、軽々に聞くものではない。まず着いたばかりでは、ほんとうの印象など持てるわけがないし、ろくでもない所だと思っても、それを口に出して言うのは小説家くらいなもので、ほとんどの人が心にもないお世辞を言う。お世辞を言われることを期待してそういう質問をするなどというのは、情けない心情である。 その町のほんとうのよさも悪さも住んでみなければわかるわけはない。その点地方の人は、平気で東京の悪口を言う。東京へ来たら、埃っぽくて、おいしいものがなくて、町が複雑で、郷里に帰ったらほっとしました、などと臆面もなくいう。しかし東京人は、それを聞いても、別に喜びも傷つきもしない。東京もまた、複雑な顔を持つ町で、数日や数週間滞在したくらいで、とうていそのおもしろさはわかるものではない、と思っているからである。 つまりそれほど土地というものはそこに住む人の心を映して複雑なものである。九寨溝には人はあまり多く住んでいなかった。ここの主役はヤクという牛の親戚みたいな高地に住む家畜である。九寨溝の偉大な風景に関する自信は、旅行者に印象を聞かなくて済むほどのものなのである。
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