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ひさしぶりに寿司屋さんへ行くとカウンターが空いていなかったので、二階の座敷に座った。推測で注文するとどうしても最後に何個か余る。いっしょに来られなかった人がいるので、折りに詰めて帰りたいというと「生もののお持ち帰りはできないことになっています」と言う。最近よく聞くせりふである。 こういうことは商法として果して正しいのだろうか。大人げないケチな話だが、お寿司はその個数だけ既に私が買ったのだから、所有者は私である。自分で夜半に再びこっそり人に隠して食べようが、うちの犬にやろうが、私は自由だと思う。 最近のホテルの宴会でも同じことを言う。宴会の料理は主催者がその分だけ買ったのである。だから私が持って帰って数日の間にけちけち食べようが、ペットの愛豚にやろうがいいはずだ。その結果私がお腹を壊しても、それはこちらの責任である。私が訴えても私が成人で通常の知能の持ち主なら、司法はそれを取り上げなければいい。 日本人はほんとうにお節介な国民である。外国から帰ると、成田空港のさまざまな放送にうんざりする。電車やバスに乗れば急停車することもあるかもしれないから気をつけろ、と当たり前のことを言う。外国のバスなどそんな警告なしで、急停車のし続けだ。 人間は、大人なら、自分の責任において行動する。危ない場所には近寄らず、お持ち帰りの料理が腐ったかどうかは鼻で嗅ぎ分ける。その能力も開発する必要がある。更にたとえ少々腐っていたとしてもそれで当たる人もいるし、当たらない人もいるのだ。 もっとも床と見せかけて実は落とし穴だったり、一応落ちないことが常識の天井板やシャンデリアが落ちてくれば、それは建物の管理者の責任だろう。しかし私は、時々知らない場所で寝る時には、頭上に落下可能なものがあるかないかは見る癖がある。サハラ砂漠で最初に野営した洞窟には、近所の遊牧民が遣う鉄梯子が吊ってあったので、同行者にその下にだけは寝ないように注意した記憶がある。 長い間銀行は何の特別なサービスもしない癖に、定期預金を下ろそうとすると「何にお使いで?」と聞いて平気だった。その度に私は一瞬、「男にやるんですよ」「ニースに別荘を買いますのでねえ」「ご存じのように葬儀屋の払いが今日うちに来るもんですから」のうち、どの答えをしようかという悪戯を楽しんだものであった。何に使おうがこっちの勝手だ。金の使い方を聞くなどというのは、ホテルのフロントが「お連れさまとはどういうご関係で」と質問するのと同じ無礼である。 強制が行われていないなら、結果は当人の責任である。危険が予測されたり、不愉快だったりしたら、当人がそれを避ければいいのだから。これが原則である。 その上で「お客さん、夏はお気をつけくださいよ。生ものは足が早いですから」と一言言うのは親切になる。
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