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著者: 曽野 綾子  
記事タイトル: 無礼な人?日本はそれほど悪い国か  
コラム名: 自分の顔相手の顔 245  
出版物名: 大阪新聞  
出版社名: 大阪新聞社  
発行日: 1999/06/14  
※この記事は、著者と大阪新聞社の許諾を得て転載したものです。
大阪新聞社に無断で複製、翻案、送信、頒布するなど大阪新聞社の著作権を侵害する一切の行為は禁止されています。  
   天皇ご一家と、オーストリア大統領夫妻が出席されたウィーンのフォルクス・オパーの「蝙蝠」を見に行った。もっとも私たちは、開演の数分前までどなたがおいでになるのか知らなかった。警察と思われる人が多いので私はオーストリア大統領がおいでになるのだろう、ということは察していた。東京では皇居と国会周辺の街路灯に、国賓が来日される時には、その国の国旗が上がるからで、私は通勤の途中必ずこの旗を見て通るのである。
 天皇皇后両陛下と皇太子ご夫妻、秋篠宮ご夫妻もご出席になると知らされると、会場の人々はどよめいた。思わぬ幸運に出会った時の極く自然な感情の流露という感じであった。それに加えて「ダンゴ三兄弟」の流行とも関係がありそうなのだが、最近の私たちの生活では一家が長男夫婦、次男夫婦といっしょにどこかへでかける、ということも少なくなっている。皇室が自然にそうした温かい家庭のきずなを示されたことに、観客は「いいなあ」という感じを持ったようにも思う。
 日本とオーストリア両国の国歌が演奏された時、私の視線はごく自然に斜め前の方角を向いていた。私の視野の中では、三人の人が起立しなかった。決して若くない中年の夫婦と、一人の初老の男だった。
 中年の夫婦は十秒くらい坐ったままだったが、周囲がすべて立っているのに気がついて慌てて立ち上がった。こうした礼儀を知らない人たちのようだった。
 初老の男は股を開いた格好で最後まで立ち上がらなかった。しかし私は自分が骨折を体験して以来こういう人を見ると、この人もきっと足が悪いに違いないと思う癖がついていた。どの国家も身障者に立ち上がるように、などとは望んでいない。
 しかしこの人は、日本の国歌が終わってオーストリアの国歌になると、誰より早く勢いよく立ち上がった。
 この老人は、いい年をしていったい何を考えているのだろう。日本はそれほど悪い国家か。皆が平穏にオペラを見られ、夜の町も清潔で治安がよい。飢えて町に倒れている人もいなければ、帰りの電車も時間通りに発車する。音楽会場では、安いお茶の自動販売機もあれば、ワインも売られ、女性用トイレはどれだけこんでいるか、外から表示板に電気がつくほどのサービスぶりである。
 しかも天皇家は、世界に冠たるしっかりしたご一家だ。宝石にうつつをぬかしたり、姦通をしたり、ヨットで遊びに出かけたりなさる方はどなたもない。陛下ご自身が田植えをされ、皇后陛下が蚕を飼われることをよしとする王族など世界に類がないだろう。日常のご生活は質素で、禁欲的で、訪ねてくれるすべての人々を分けへだてなく温かく受け入れるという友好の原則のために黙々と奉仕しておられる。その方々の前で、わざと足を開いて坐ったまま国歌を拒否する老人は、やはり無礼な人と言うべきだろう。そんなにいやな日本ならば、オーストリアへ行ってヨハン・シュトラウスを聴くことだ。
 



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