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一九九七年九月十四日 ミャンマー(旧ビルマ)のマンダレーの朝を、ホテルの部屋から眺めるのは至福の時である。パゴダが緑の樹海の中の白い帆のように浮かび、椰子は少女の髪のように風に揺れている。眼下のプールの水面は生の証のようにいっせいに波立っている。 一昨日登ったマンダレーの岡も見える。眩いばかりの鏡を張ったお寺のテラスには、人生の不幸の影もない。かつてここで戦った日本の第十五師団と英印軍の兵士たちのことを思った。私たちは今遊びでここに来ている。彼らは酷暑と生命を賭けた戦いのためにここにいた。その差を思うと、運命はこれ以上ないほど不公平である。 ホテルのもう一方の窓からはマンダレー城砦の赤い壁が見える。一昨日行った時には閉門の五分過ぎで中に入れなかったが、「丸の内」は兵営だらけだという。 昨日は一日胃痛と発熱。 「らいの日曜日」だというので、私一人で六時十五分のミサに出て、日帰りでパガンに行くことにしていたのだが、ブスコパンも効いていたせいか、終日ホテルで眠り続けた。パガンヘ行った組は気の毒なことになってしまった。車は三時間少しで行けるといわれていたのだが(私は案内書で距離を百九十三キロと読んでいたがマイルのまちがいだった!)、帰って来たのは夜九時半だったとのこと。しかも中井先生が途中から悪寒。 九月十五日 中井先生高熱。昨日パガンヘの道で、酷暑の中で汗をかいては冷房の効いた車の中へ入るということを繰り返したせいだという意見が多い。 暑い国で安全に調査旅行を続けるには、二つの鍵があると言う。冷房のある車に乗らないことと、かなり食事の量を節することである。禁を犯して冷房車を使った結果が中井先生の風邪で、多食のバチが私のトウガラシ性胃痛になって現れたのである。 イエイナンターの国立ハンセン病院を訪問。一八九一年にワイヘンガー神父の創った病院を、後に政府の経営に移したのである。ハンセン病だけでなく、子供の引きつけやマラリアや毒蛇に噛まれた人など、地域の病人が皆ここを利用する。 入院している人は、時間的にもかなり前に発病し、しかも無知か貧困かによって治療をせず放置した人たちである。下肢を切断していたり、指が曲がらなくなっていて、衣服の脱ぎ着もままならない。しかし二、三十人は入る大きな病室はきれいに掃除され、風通しよく、婦人たちも「お客が来るよ」と言われていたせいか、髪を櫛巻き(実際にプラスチックの櫛をさしている)に結い上げてこざっぱりしている。ミャンマーではドクターも看護婦さんも患者も、皆が堂々と腰巻き風の民族服、ロンジーを着ている。このロンジーも着方に個性がある。医師は医師らしくロンジーを着るこつがあるらしい。 マムシに噛まれた若者は片足を台の上に上げているが、もともと太くて日焼けしているから腫れも目立たない。 「噛まれた時、痛かったですか」とばかな質問を通訳してもらうと、「すごく痛かった」のだそうだ。症状としては、腎臓がやられてオシッコが出なくなるのだという。点滴を受けているが、お小水が出るようになれば退院できる。大体一週間くらいかかるという。 以前は蛇に噛まれたり、骨折したりすると、近くの町か、時にはマンダレーの病院まで行かねばならなかった。パス代は普通で六十円、エアコンつきだと百円くらいだが、急を要する病人は二千円くらい出して車を頼まねばならない。何しろ最低日給が百二十円の国だから、二干円は家族の生活を圧迫する。 九月十六日 ミッタ、クメー、カントウのタウンシップ・ホスピタル、ステーション・ホスピタル、サブ・センターなどを訪問、薬の種類の選定の適否、費用の回転システムの現実なども聴く。暑さきびしく、気を使うので消耗。 途中で湯浅先生は一足先にバンコックにご出発。 夜となるとご褒美のような玲瓏たる月がマンダレー城砦の上に出た。しばらく車を降りて堀を渡る夜風の中に立った。何でマンダレーまで来てしまったのか、と思う。 九月十七日 マンダレーからヤンゴンに戻る。終始私たちを案内して下さったミャンマー保健省教育局次長のティン・シュウ先生と待合室のベンチでお話。奥さんと初めてお会いになった時、「私はもうハンセン病と結婚しています」と言われたと言う。同居しておられる八十歳の母堂は奥さんがずっと世話をしておられる。 昼間、博物館を見て、その後、川に浮かんだ船のホテルで食事。イラワジの川で十六夜の月を見るためである。 二十五年間、私たちが続けてきた海外邦人宣教者活動援助後援会が読売国際協力賞を受けたという新聞の記事が送られて来ていた。今日は私の六十六歳の誕生日。最高の贈り物を受けた(今日が私の誕生日だということは、もちろん読売はご存じない)。 副賞の五百万円で、途上国なら小学校を一つ建てられる。慎重に場所を選びたい。
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