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一九九七年三月二十五日 朝ザルツブルクからフランクフルト経由で帰国。 ルフト・ハンザの機内で、日本人のスチュワーデスと話をする。今日の乗務を最後に、三カ月の休暇に入るのだそうだ。三カ月働いて三カ月休む。これは雇用をふやすための一種のレイオフのやり方らしい。日本でもシステムができれば、収入は少なくていいから自由な時間も確保できるこういう仕事に就きたい、という人はいると思う。 成田から財団に寄ってそのまま執行理事会。夏以外、財団は毎週執行理事会を開いて、いる。怠け者の私は、とにかくこう頻繁ではたまらないから、二週に一度くらいにしてもらえないかなあ、と内心ずっと思っているのだが、事実、審議事項も報告事項も実にたくさんあるのである。 最近、一番純粋に紙の目方の重かった書類は、平成九年度の第一回ボランティア支援事業の申請一覧表であった。七百九十七件もあった申請を、詳しくは係が見ているので、私はざっと目を通すだけだけれど、それでも少し首が凝った。帳簿とか一覧表とかいうものは、私のような素人の動物的本能に近い神経に奇妙にひっかかる個所がある時があって、問題があるとしたら、そこなのである。こういう末梢神経の働きは女性の方が鋭いという人もいる。 夕方帰宅後、長く飛行機に乗った後必ず調整をお願いしている整体の先生に来て頂く。三十代に二度階段から落ちて、背骨を強く打った。その後がどうしても少しおかしくなる。コンジョウの曲がった人、という表現は何ともよくできている、と感じる。 三月二十六日 この日記の担当は『サンデー毎日』編集部の大村孝氏なのだが、氏から困ったような電話。私が計算ミスをしたのだ。途上国へ人道上の援助として送る輸出粉ミルクは、国内市価の半額で一キロ千円と決まっているから、貧しい子供たちを助けてやってください、と言って五十万円の寄付を頂けばほんとうは五百キロ買える。それを私は五十キロと書いてしまったのである。 間違いを電話で指摘してくださった方があったと言うから、思わず「ありがたいことですね」と言った。大村氏は間違いに気がつかなかったのは自分の失策であるかのように心を痛めている。こういう出版界のうるわしい庇い合いについて、世間はあまり知らない。しかし責任はすべて私にあるのだ。 「大村さん、昔から『算数をさせるとまるでダメ』という生徒がいるでしょう。私はそれなんですから、またポカをやったんですよ。ゴメンナサイ、という気持ちを日記に書きますから。謝る日があるのも日記でしょう」 と言ったのだが、慎みが足りなかったかもしれない。 この頃よく「まことに遺憾であります」という表現を聞くけれど、あれはどうも態度が悪いと思う。人は失敗をするものだが、その時は「ごめんなさい」「許してください」「これから気をつけます」というのが、小学生みたいだけれどいいような気がする。 三月二十七日 芸術院会員の大岡信、竹西寛子両氏と、ご紹介役の三浦朱門の後について、天皇・皇后両陛下に個人的なお茶を賜る。正式には去年お招きを受ける順番だったのだが、脚を折って数日目だったので失礼を申し上げたのである。 大岡、竹西両氏からの、紀貫之と菅原道真についてのお講義を陪聴させて頂く。両陛下はもともと深い教養がおありの上、決して知ったかぶりをなさらないから、却ってお話は自然に深く専門的な分野に入って行く。御所のお庭はできるだけ自然を残す、という趣だが、遠くで散っているのは、こぶしの花かと思う。お部屋の飾りは、自然石を磨いたものと、派手な絵つけのない釉薬だけの大皿が一枚。絵はお飾りにならない。それだけに、皇后さまの帯の桜が、両先生の大和ぴとの心と言の葉をみごとに受け止めているように見える。 お菓子だけ頂いて黙って帰って来るのもまた申しわけないような気がして、私は、さらに少し古い時代(二世紀)に、全く対照的な思想を持っていたユダヤ人の、遺漏なく堅牢に書き集められた法律について少しお話をする。 三月二十八日 晴海にある船の科学館で、障害者用の特殊装備をつけたアメリカ車を初めてマスコミに公開した。アメリカでは、障害者が自分の車椅子のまま自動車に乗り込んで運転できる。日本でもそういう車を開発しなければならないのだが「どんなものだかまだわからない、と運輸省も言っていますから、一台研究用に輸入させてください」と言われたのが実現したのである。 アメリカからマイクという青年がお父さんといっしょにデモンストレーションに来てくれたし、車椅子の方たちも大勢来られたから、日本の各自動車会社もそれぞれ開発した障害者用の車を並べて見せてくれた。障害者も行きたいところに一人で行けるようになってほしい。 誰も気がついていないようだったが、並びの埠頭に停泊中の練習帆船「海王丸」の帆を畳んだ静かなマストに、春の陽ざしと風が祝福するように降り注いでいた。
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