|
どうでもいいようなことを考えるのは、老人特有の兆候だと誰かが言った。私のことである。私は昔からそう言う癖があったので、ずいぶん若い時から老人だったことになる。 知り人に日に一万歩歩くことを日課にしている人がいる。どんなに早く歩いても、一時間では無理だろう。それを日課にしなければならないような年齢と健康状態の人なら、一時間半は充分かかるかもしれない。 悪いとは言わないが、どうもそれはもはや人間の暮らしではないような気がする。もし日本人が全部「一万歩歩くことが私の日課です」などと言いだしたら、誰が生産的行為をするのだろう、という気がするのである。 私はリハビリや健康管理のための運動が悪いと言っているのではない。ゆっくりと、やっと百歩を歩ける老人が毎日たゆみなく歩き続ける姿は美しい。しかし一万歩も歩けるほどの体力のある高齢者なら、何か他人のお役に立ったらどうだろう、と思うのだ。もちろんそういう人に、ビールや大根を買って来てくださいとは言えない。こういう重いものは私でも運ぶのが嫌になることがある。しかし出歩けない人のために、サンドイッチとか、コンビニの出来合いランチくらいは運べるのではないだろうか。一万歩歩ける体力というのは大したものなのだから、それを自分のためばかりに使わず、同じ世代のためになることに使おうとなぜ考えないのかと思う。 暇な時に私が考えるもう一つのことは、私の家の小さな戦いに関する困惑である。つまり送られて来る書類や手紙をどう処理するか、ということだ。私の家で、もっとも大変な仕事は、送られて来る紙類を、適切に捨てる作業である。 私は週に三日財団で働き、四日作家として執筆している。小説やエッセイを書くためには或る程度の資料も読まねばならない。しかし何より恐ろしいのは、政府の審議会などから送られて来る関係書類である。私ならずとも、誰でもこれだけ送られてくる書類をすべて読むことはおろか、眼を通すだけでも大変だろう。その分野の専門家なら、処理もうまいのだろうが、私にはできない。それを置く場所も大変だ。それでも平気で送って来る。役所は送れば、それで責任が済むのだろう。しかし消化できないほどの資料を送りつける無責任は、人間的でない。 情報公開は、情報を求めて来る人に対して誰がどうお相手をするか、ということが解決されない限りできない。それに関して必要な人件費や、手数料や、時には倉庫料を持つのは当然だ、と言われても、できるものではない。インターネットに載せる義務はあろうが、インターネットの費用さえ出ない組織もあるだろう。どこも当然、人件費を節約しているから一人一人にお相手する時間はない。 「人のことを知る権利」はあるが、「自分のことを知らせる権利」はないと皆が思っている。今のうちに、この齟齬を法的に調整しておく必要があるだろう。
|
|
|
|