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著者: 曽野 綾子  
記事タイトル: キナ臭い瞬間  
コラム名: 夜明けの新聞の匂い 1996/12/05  
出版物名: 新潮45  
出版社名: 新潮社  
発行日: 1997/01  
※この記事は、著者と新潮社の許諾を得て転載したものです。
新潮社に無断で複製、翻案、送信、頒布するなど新潮社の著作権を侵害する一切の行為は禁止されています。  
   厚生省の事務次官や審議官や県の課長たちが、高齢者のための福祉施設の建設を次々に計画した男から数千万円の金をもらい、ゴルフ場の権利の売買の謝礼を受け取り、車を借りたり高級料亭での接待を受けたりしているのではないか、という容疑で逮捕された事件は、まだ全貌がはっきりしていないのだが、私はここで書きにくいことを書くことにしようと思う。
 なぜ書きにくいかと言うと、私が今働いている日本財団は、問題の福祉グループが計画した特別養護老人ホームに対して補助金を出している立場だからである。財団はもちろん国と県の助成が決定することを条件に補助金を出した。しかしその途中で不安を感じることがあったので、再三にわたって県側に調査を依頼していた。そしてその都度、「単なる書類上の不備であり、それを直させれば問題ない」という返答を受けて、補助金の半額を出していたのである。
 本来は、総額で五億円出す予定であったが、そのような不安が重なったので、今年度の分は、送金を遅らせていたところに、事件がやはり明るみに出て来たのである。
 内輪話になるが、私は財団の監査部がどうしてこのことに最初の不安を感じたか、ということに非常に興味を持った。私は一年前まで一人でぼそぼそ仕事をしていた小説家だから、どの官庁とも地方自治体とも「折衝」などしたことがない。だからこういう時に、どういうことから不安を感じたのか、具体的に説明してもらわないと、理解できない。それも、公式の返事などもらっても仕方がないのだ。小説家として、私の感覚が納得する一つの情景として話してください、と私は言った。
「ほんの一つの例ですが……そういう時には、こちらの提出した疑問点に対して課長が説明に来るものですが、その時は係長が来たんです」
 そう答えてくれた人はその時徴かな当惑の笑いを浮かべていた。こんな素人向き、散文的な説明は、今までしたことがなかったのだろう。しかしこれはなかなかいい返答であった。最初の不安を嗅ぎつける時、その徴候は、理屈としては説明しがたい程度の変化であるはずである。うちの財団は、決して威張って課長が説明に来ることを期待していたのではない。しかしなぜかその日には、係長が来た。ちゃんとした説明さえあれば、係長で悪いわけではない。しかし……この先は世界共通の動物的勘の世界になってしまうのだろう。
 特別養護老人ホームとホスピスの建設は、一九九六年の時点では、日本の社会が強く要求しているものとして、日本財団でも補助金を出す最優先事業の一つになっている。一時代前には、財団は全国にゲートボール場を作ることをやって来た。しかし一九九〇年代には、次の段階が来たのである。
 時代が必要とするプロジェクトを、事務次官や審議官や担当課長が、もし自分の蓄財の方途や、政界出馬の足がかりにするために使っていたとしたら、それは労るべき高齢者を「食いもの」にしたという点で、卑しい行為と言われても仕方がないだろう。
 日本財団では事件が起きた直後に記者会見をした時、監査部長はちょうどアメリカヘ行っていた。あれほど不安を警告し、財団と県との折衝の推移をよく知っていた監査部長が不在だったのである。「監査部長は、今アメリカに行っています」と新聞記者たちに言った時、私の中で、この点はもっと説明しておくべきだ、という本能が働いた。偶然に旅行中でも、当人がいないというだけで何かあるんじゃないか、と疑うのがマスコミの反応なのである。
 監査部長は数週間前に、個人的に私の部屋を訪ねて来ていた。いきなり、「『コルプス・クリスティ』というのをご存じでしょうか」と聞かれた時には、私は少しびっくりした。そのラテン語は「キリストの体」という意味だったからである。しかしもちろん、部長はキリスト教のことを話しに来たのではなかった。アメリカ式に発音するとコーパス・クリスティというのはアメリカの市の名前で、それは彼の住んでいる町と、姉妹都市の関係を結んでいた。
 監査部長は長い年月、視力障害者のためのテープサーを朗読して、テープに取って届けるのである。そのような朗読奉仕者たちの大会がコーパス・クリスティ市で開かれることになっており、彼は有給休暇を利用して出席したい、と私のところに言いに来たのであった。
 それはすばらしいことであった。別に財団が勧めたことではないにせよ、私たちのような公益福祉のために働く財団は、一人一人の職員に、自発的な奉仕の実体験がなくては、とうてい仕事の本質に迫ることができない。私はいい研究旅行ができるように励まし、監査部長の休暇は実現したのであった。
 私は記者会見の後、すぐアメリカにファックスを送り、事件は財団が持っている詳しい交渉の記録によっても解明されつつあり、せっかくの勉強のための休暇は心配をせずに充分の成果を得て帰るようにと監査部長に書き送った。
 もちろんこの事件は卑劣なものなのだろうが、私は少し落ちついてマスコミの反応を見ながら、もう少し言うべきこともあるのではないか、とも感じているのが今の状態である。
 私がマスコミの報道の中で驚いたのは、事務次官の官舎のスペースであった。テレビで見ただけなので、ノートを取るひまもなかった。しかしその時、素早く頭の中で計算したのは、小さな3DK(だったと思う)の面積で、一男四女の子供を含む七人の事務次官の家族が住むことは、今の日本の常識では大変だ、ということだった。
 私は官舎と名のつく建物の内部を見たことがないが、大家族なら大家族並みに、広い官舎を供給してこそ、官僚を汚職から守る道ではないのか。
 もちろんマスコミは、そのような甘いことは一切言わない。そして事務次官がいかに有能に、マンションを買ったり、自家を建てたりしているかを書いている。夫人は資産家の娘で、実家のある広島に年間七百二十万円もの家賃が入る賃貸アパートを持っていたとか、手持ちの地所に三千万円で家を建てたとか、更にその翌年には、六千五百万円で一戸建ての家を買ったとかいうような、土地転がしの手口である。
 この事務次官の決定的なルール違反は、一九八四年に東京大久保に夫婦名義のマンションを買ったにもかかわらず、そこには一年ほどしか住まず、あとは家賃がただも同然の官舎に戻って、不動産の売買で、儲けてきたことだろう。普通都内に自家を持つ公務員は、官舎に住むことを禁じられているのだと言うが、この人は自家を買ったことを報告していなかった。
 他にも家が狭くて困ると思いながら暮らしている公務員の家族はたくさんいるだろう。だからこの事務次官は明らかにルール違反で、その点だけでも、トップに立つ器ではないのだろうが、他の省にもこの手の人は必ずいるだろう。自粛を徹底させるなら、今のうちである。
 しかしそれとは別に、非常識に狭い家にはやはり住めない。マスコミは、水に落ちた犬を叩きはするが、こういう点については少しも人間的な同情を示さないのである。土地転がしは、もう少し広い家に住みたいという事務次官夫婦の切実な願いの現れだったのだろう。
 第二の点はもっと書きにくい。それは、この事務次官とその腹心の部下である県の課長=後に先の衆院選に立候補して落選した=の黒い欲望のおかげで、老人ホームは常識より早く実現を見た、という点である。普通なら三カ月かかる認可が、二週間で下りたというような文章もどこかで読んだ。
 もっともこういう不透明性が明るみに出たおかげで、今度は進むべきところも大きく頓挫している。そして私がこういうことを書けば、これだけで「あんな連中」の存在にいささかでも存在意義を見るのか、という非難の投書が必ず舞い込むのである。
 私が言いたいことは次のようなことだ。
 この事務次官とその一党、乃至は、すべての官吏が、その気になれば二週間で下ろせる許認可を、他の人たちは三カ月も下ろさないで今まで来ていた、という実態が、今回図らずも暴露されたのは、せめて慶賀すべきことであろうということだ。
 特定の誰とも何の利害関係も持たずに二週間で許可を下ろせば、その人は倍の善行をしたのである。しかし利益を得るために二週間で許可を与えたのなら、それは倍の悪行をしたことになるのである。
 もっとも、こういう見方もできる。本来なら安全を期して三ヵ月かかる事前調査を、彼らは手抜きで二週間でやっただけだ。もしそうとすれば、彼らは四倍の悪いことをしたことになる。どちらの判断をすべきか、私は知りたいと思う。
 こういう事件があると、ともすれば、正義が先行しそうになる。正義を追求するために、日本財団も、先に福祉グループに払った金まで取り返すことに熱心であるべきだ、といわんばかりの人もいた。
 しかし正義など、「もし愛がなければ」どれほどのものでもない。正義が先か人を生かすことが先か、ということになれば、明らかに人を生かすことが先であろう。
 事件が明るみに出た日、私はすぐ問題の特別養護老人ホームの入居状況を調べてもらったのだが、百人定員の中で、既に七十五人が入居していた。ここを最後の住処にしようと思ってきた高齢者たちである。その人たちに不安を与えてはいけない。そしてまたそこで働こうと思い定めて来てくれた人たちからも、職場を奪ってはならない。
 私は、この老人ホームが、しかるべき新しい経営者の手で、しっかりと経営が建て直され続行され、私たちの日本財団も本来の計画通り、決定した残り半分の補助金を払える状況になることを念願している。しかし危うい状況で大切なお金を支払うことはできない。ここは徹底して前向きの現実性だけを追っていくべきだろう。

 公務員の綱紀粛正は結構だが、官々接待、官民接待は、一切しないなどという硬直した姿勢に、私は一度も賛成したことがない。
 誰に説明しても、当然と思われる接待の場はむしろあらゆる仕事に必要なことだろう。ただそれは、誰(複数)と、どういう理由で、いつどのように行われたか、はっきり数量や理由の説明ができるような記録がなければならない。
 私は財団の仕事をするようになってから、マスコミにもどんどん業務の内容を見てもらうことにしたが、後で必ずいっしょにビールを飲みながら雑談をすることにした。ピール会社から決してワイロをもらったわけではないが、私は一ぱいの冷いピールで人の心がほぐれるのを、すばらしいことだと感じているので、「官々接待、官民接待反対」の風潮に軽く反対することにしたのである。私は時流に乗ることも昔から好きではないのである。
 誰が一罐のピールで心など売るものか。飲んで堂々と反対すればいいことなのだ。事務次官と審議官の悲しさは、あまりにも典型的なこの世の栄華(料亭の接待、自動車のさし廻し、ゴルフ場の権利など)に易々と心を売ったことである。
 我が財団では、食堂のコックさんの作る焼きそばと蝦のチリ・ソースがおいしい。安いサンドイッチも、ほどほどのお鮨もある。しかし立食の小パーティーだから、何十人ものお客に対して、費用は徴々たるものだ。私がいつも「お出しするのは、質素なものでいいんです」と言い続けているせいもある。
 その代わり、私はいささか高くついても、ビールは決して壜を置かないように頼んでいる。そこが私のズルイところだ。おかしいものなのだ。誰でも和やかな空気があれば、相手にビールくらい注ぎたいと思う。しかし私が相手のピールを注ぐ瞬間を狙って、写真を取られることがわかった時、そのシャッター・チャンスには、いささか危険な悪意がある、と私は見て取ったのである。
 その必要があれば、相手にピールを注ぐという自然で人間的な行為を私は止めることはしないが、その場合、罐ビールなら、曾野綾子が相手と黒い癒着をするためにごきげんとりのお酌をしているとは見ないのだ。壜だけがいけない……これが最近発見したおもしろい日本文化の約束ごとの一つである。
 すでに、官僚だか公務員だかの感覚は異常になっている。だれでも友達になれば、お互いにささやかなおいしいものだの、旅行に出た時に見つけたちょっとした珍しいものだのを贈りたいものだろう。最近の公務員は、そのようなものを受けた場合でさえ、礼状一つ寄越さなくなったのだ。もちろん礼状なんかほんとうはどうでもいい。しかし彼らが身の安全のために追放し粛正したのは、むしろ人間性と礼儀であることも、この際、付け加えておいていいだろう。
 



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