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一九九七年六月十六日 朝八時二十七分新横浜発のこだまで、浜松へ向かう。浜名湖競艇場の訪問。いまだに日本財団は競艇をやる団体だと思っている人たちがいる。日本財団は競艇の施行者ではなく、売り上げの三・三パーセントを受けてそれを海洋船舶の研究、公益福祉やボランティア活動の支援、海外援助などに使う組織である。 お金を頂く立場なので、全国で二十四場ある競艇場にご挨拶に歩いている。去年脚を折って予定が遅れ、浜名湖が十三場目。今年中に全部、回れるはず。 ここのところずっと風邪。喉が悪くなるとやたらに眠くなる。薬もあまり効かない。病気の自覚はなく、どうしてこう人生というのは眠いところなのだろうと思っている。新幹線の中でも少し眠り、目覚めてもさっぱりせず。 浜名湖競艇場では、舟券売り場に入れてもらう。お札の束、硬貨の山。こんなところへ外部の人を入れて、機関銃を持った人もいないで済んでいるなんて、日本という国はなんと素晴らしい国だろう。しかし警備は怠りなく、人を信じずに、と願う。 舟券は一レースに三千円ずつ買う。私は大穴狙いでやることにしている。ということはほとんど当てないで「いまに見ていて」ということだ。同行の日本財団の職員の中には、私の買った舟券をチラと見て、それ以外の番号の組み合わせを買って当てている人がいる。 帰りに浜松で21世紀倶楽部のための講演をする。 六月十七日 朝、新入社員の面接試験。 このごろ時々、面接は英語になる。若い人たちが英語ができるようになったことは信じられないほどだ。まもなく日本人は英語が苦手だなどということはなくなるだろう。 うちの財団に来れば、おもしろい仕事ができる。人生もよく見られる。仕事が画一的でない。それがわかる人と縁があることを願う。 全く個人的な小説のことで、核燃料の再処理をするフランスのCOGEMA社のルナーユ氏や動燃の関係者と、簡単なお昼ご飯。 先日の東海村の事故では、事故現場にいた人でさえ、誰も入院もせず(簡単なチェックを受けただけ)、その後も健康を害していないという。それは事故が大したことではなかった、ということだ。それなのになぜあんな騒ぎになったのか。要するに情報公開のタイミングを失したのである。 午後、人事院の初任行政研修のための講演に、埼玉県まで行く。花の多い季節はドライヴが楽しい。 六月十八日 夕方から、私の家で、海外邦人宣教者活動援助後援会の運営委員会。海外で働く日本人の神父と修道女に、活動資金を援助する小さな組織だが、全国の個人からお金が届けられてくる。 今度の会合の前にも、郵便ポストに投げ込みで四万円が入っていた。秘書は、お金を入れた封筒が新聞の間にでも紛れ込み、その日に私たちが新聞を読まずに古新聞に回してしまったら、と思っただけで心臓が痛くなる、と言う。 十八歳の息子さんを亡くされた磯貝鈴子さんは、命日のお金を送ってくださる。関西の或るご夫妻は、ご主人の補聴器が見つからなくなり、新しいのを買わなければならない、と覚悟していたら、思わぬ所から出て来た。ご主人は、なくしたと思ってそのお金を寄付するように、と言ってくださったという。不幸や不運を、命や光に変えるということは、一種の魂の錬金術だ。 会合は夕食を挟んでやるのだが、飢餓の国を救うのだから贅沢はいけないという口実で、今夜もハヤシライスとサラダだけ。ハヤシライスの玉ねぎも、サラダのレタスやパセリも、皆うちの庭で採れたものだから、ほとんどお金がかかっていない。お迎え花の百合だって、私が去年あちこちに球根を植えておいたのが咲き出したものだ。 しかし今日は、特別にすばらしいドリアンがデザートにとってある。ミャンマーから届けてくださった方があるのだ。好きな人と嫌いな人が半々。好きな人は嫌いだと言ってくれる人を好きになる(その分自分が食べられるから)、という魔法の果物。 今日の会合で、フィリピンとペナンで働くシスターたちの要請で、それぞれ農産物の運搬用トラックと職業訓練所の学生の通学用の車を買うことを認可する。路線バスもない国では、車がないと仕事が全くできない。 六月二十一日 京都大学土木百周年記念の講演をしに京都へ日帰り。 今にして思うと海外工事の土木の現場ほど、その国の事情のわかるところはない。私の「世界各国貧乏学事始め」は、『無名碑』という作品を書くために、タイの土木の現場に立った時に始まったような気がする。インド人は鳶(高所作業)とアスファルト工、中国系の人は細かい大工仕事を伴うコンクリート打設と重機のオペレーターに向く、などという話もすべてどこかの現場で教わったものだ。 六月二十二日 朝から原稿書きと荷作り。明日から三週間の海外出張が始まる。少し憂鬱。
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