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ビロード革命と刑務所 この地球上で一番ひどい人種差別を受けている人々、それはロマ、つまりジプシーではないのか。スロバキアでの見聞で得た実感である。「ジプシーの一〇%は音楽家、一〇%は音楽家兼泥棒で、残りの八○%は泥棒なんだ」。この国のスラブ系の白人がそういった。この異なる人間に対する嫌悪のすさまじさ、これぞ極めつきの人種差別の原因であり、かつ結果でなくて、何であろうか。 念のために旅行案内書を開いてみる。海外を歩くとき、決まって『地球一人旅』という英語のシリーズを持っていく。なぜ英語なのか。日本で出版される案内書は数あれど、観光と土産と食事をもって旅の目的とする??それが編集方針のようなので、私には役に立たない。今回持参した「チェコおよびスロバキア共和国編」という五百ページほどの本の巻末には、便利なアルファベット順の索引がついている。「RACISM」(人種差別)。ちゃんと掲載されていた。 「読者は驚くことだろう。この国のロマ(ジプシー)に対する日常的な偏見について。ロマのすべての行動が非難の対象にされているのだ」とある。そしてこんなエピソードまで紹介されていた。 一九九三年の北ボヘミアでの出来事。美人コンテストの女王が、新聞のインタビューで「将来何になりたいか」と聞かれ、「私の町からジプシーを追い出したいので、検事になるつもりよ」と平然と答えたというのだ。さらに「もしあなたの肌がダークスキンだったら、軽度の差別を受けるかも。この国は旅行者を特に敵視する風習はないにもかかわらず」と書かれていた。 刑務所の見学に出かけた。ここでも、最大のテーマはロマ問題であった。首都、ブラスチラバから車で百五十キロ、中部スロバキアにある人口九万人の都市、バンスカ・ビストリカの郊外である。受刑者の社会復帰の手助けをするボランティア団体の事務所が、その刑務所の鉄格子の内側にあると聞いたからである。十年ほど前、米国メリーランド州の刑務所を見学したことがある。「“刑務所ボランティア”の元祖は米国だ」と、そのとき、聞いた記憶があるが、ここのシステムはそれとよく似ている。 塀の中に四棟の受刑者収容施設がある。一番奥は、終身刑などの重罪犯、刑務所の門に近い棟ほど刑期の短い人が入っている。一番手前が、出所を間近に控えた人、もしくは模範囚の棟になっている。この棟に社会復帰のケースワーカーの事務所があり、この棟に限って中の往来は、おおむね自由になっているところも、アメリカン・スタイルだ。 人権尊重が建前のアメリカ文化が移入されたのだろう。刑務所副所長の中年の社会学者の解説では、「チェコ・スロバキアのビロード革命が、共産主義時代の刑務所システムを根本から変革した」という。一九八九年のハベルの民主化市民運動がビロード革命といわれるゆえんは、犠牲者ゼロの非暴カ、話し合いによって達成されたからだ。共産党政権時代に人民を弾圧した人々の行為も不問にふされた。共産党員も含めて、まず「国民的理解」の政府が樹立されたのち、劇作家で地下出版物を出し、自由のための抵抗運動に半生を捧げたハベルが国民議会で大統領に選出された。 ソフトで肌ざわりがよい。そこで「ビロード革命(VELVET REVOLUTION)」と名づけられた。ハベル大統領の民主化と人種尊重の置き土産が、スロバキア独立後も、この国に残された。そのひとつが、今日のこの国の刑務所システムだ。だから、受刑者の扱いも「ソフト」だという。 「しかし、当時のチェコ・スロバキアの民主化と市場化の恩恵は、ロマだけは素通りしていった」と同行の文化人類学者の堀武昭氏は言う。むしろ彼らの生活は悪化したともいわれる。 共産主義政権時代は、ロマにも労働ノルマが与えられ、食糧が配給された。草原をさまよい歩く遊牧も、ある程度大目に見られていた。だが、ソ連共産主義という最大の脅威がなくなったとたんに、中央ヨーロッパの人々の憎悪の対象は、旧ソ連ではなく、隣人のロマに向けられることになったのだ。彼らにとっては、中欧は、以前にも増して居心地の悪い土地になりつつある。 「失業率」などという経済用語は、この国のロマには通用しない。バンスカ・ビストリアの近郊の人口三千人の小さな町では、定職をもつロマは一人しかいないとも聞いた。ほとんどが文盲であり、まともな住居もなく、そして失業者なのである。「この刑務所の収容人員は八百人。この地域の人口の八%がジプシーなのに、受刑者の四〇%はジプシーだ。彼らの犯罪の七〇%は酒を飲んだときに起こしている。ジプシーの受刑者の四〇%は再犯で戻ってくる。十五回も戻った者もいる」と、社会復帰担当のケースワーカーはいう。 二人部屋の鉄格子のドアを開けて房内に入る。鍵はかかっていない。窓は思ったより大きく、晩秋の日ざしが明るくさし込んでいる。壁には受刑者の描いた「ひまわり」の絵がある。ベッドの脇には、恐竜の木工細工が。これも受刑者の手作りの作品とのことだ。 房内の一人、年のころ四十五、六歳のロマの男とスロバキア語?英語の通訳つきで立ち話をする。薄褐色の肌、真っすぐの黒髪、黒い瞳、背は高くない。典型的なスロバキアン・ジプシーの風貌だ。 「あなたはロマ(ジプシーは禁句である。彼らはロマと呼べと主張する)ですか」 「そうです。見てのとおりだ」 「刑期は……」 「五カ月だった。でもあと十三日で出所するんだ」 「帰る家はあるのですか……」 「ある……」。しばらく沈黙ののちそういう答えが返ってきた。「どうかここに戻ってこないで……。ジプシーは帰るべき空間がないのよ。経済状況の悪化や、失業率の増加などに対する不満や不安のはけ口が、社会的弱者であるジプシーに向けられる。そしてここに戻ってくる」。通訳をやってくれたカトリック教徒の刑務所ボランティア女性が、そう解説してくれた。
「赤ワインの熱燗」 日本における平均的ロマ像は、あてどもなく放浪するロマンチックな漂泊民、あるいは情熱と哀愁のミックスしたジプシー音楽師といったところだろう。だが音楽師たちはロマ社会のエリートであり、ほんのひと握りの恵まれた人々である。バンスカ・ビストリアから、ダニューブ川沿いのブラスチラバヘの帰途、日が暮れる。この国の秋は山の日没が、ことのほか早い。ブラスチラバの大学で日本経済論を專攻しているスロバキア人女性の案内役、ヤナに、「コリバで、スロバキア料理でワインを飲まない。ジプシーの音楽師もいるから……」と誘われる。 中部スロバキアの山脈を、七曲がりしながら横切る街道沿いには、この国でしか味わえない羊飼いの伝統料理を出す、ログハウス風のレストランがいくつかある。それを「コリバ」という。お燗をした赤ワインが出てきた。世界広しといえども、ワインを熱燗にして飲むのは、コリバだけだろう。この熱燗の起源は、その昔、ルーマニアからカルパチア山脈沿いに、この地に入植した羊飼いたちが、厳しい自然の中で羊の放牧を試みたことに始まる。雪の中、ようやく小屋にたどりつき、まずは熱燗で暖をとったのだという。「プリンザ」(ジャガイモの団子と羊チーズのあえもの)と熱燗が、ぴったりとくる。 チェコはビールだが、スロバキアは赤ワインがウマイ。とくに「グロッグ」という安物の地酒が、お燗用に最も適しているとか。おろしたジャガイモと小麦粉をねって、沸騰した湯にちぎって入れる“スイトン”も格別だ。羊のチーズとべーコンをまぶして熱いうちに食べる。「ハルシキ」といい、これも羊飼いの伝統料理とか。 私は、それほどのワイン通ではない。でも湯気のただようスロバキア赤ワインの香りは、屋台のおでん屋の熱燗に勝るとも劣らない味わいだ。アルコール分が適当に蒸発しているせいか、何杯でも飲める。しかもワイン特有の香りと、まろやかな渋みは損なわれていない。寒さよけには、まず胃袋から暖めるという発想法が面白い。 「醸造酒を燗して飲むという習慣は、他のヨーロッパ諸国では聞いたことがない」と呑兵衛の文化人類学者堀氏はいう。でも、日本には酒の熱燗がある。日本とスロバキア、この国の牧民の時代に文化交流があったとは思えない。アジアの一番東の島国日本と、中央ヨーロッパの山国スロバキアが、酒に熱を加えるという同じ発想をしていたとは……。 スロバキアには、熱燗のほかに、もうひとつ、変てこなワインがある。それはフランスのボージョレ・ヌーボーより、もっとブドウジュースに近い「ブルチャック」という疑似ワインだ。農民の自家消費用なので、酒税は免税されるとのこと。デカンタで供されたのだが、七百二十ミリリットルに換算すれば五十円以下だったと記憶する。これが、またウマイ。ブドウ採り入れ後、一カ月もすると醗酵が進んで、本物のワインになってしまう。その前の“処女”の味だ。 ロマのバンドが、哀愁がみなぎるジプシー・ミュージックを奏でる。耳を澄ます。どこかで聞いたようなメロディが、流れている。全部ではないのだが、メロディの一部が、日本の演歌調なのだ。「一人酒、手酌酒、演歌を聞きながら……。男には、いくつもの思い出がある……。女にはいくつもの寂しさがある……。わかるか、なあ酒よ」例の吉幾三のヒットソングと酷似しているのには驚いた。偶然の一致なのか、それとも、日本の演歌の作曲家が採譜をしたのか……。 ロマの歌のエッセンスはノスタルジア(郷愁)である。千年前、インドを追われてやってきた八百万人のヨーロッパ・ロマ。どこの土地に郷愁を抱くのか。彼らのユートピアは、「NO LAND」である。「GO HOME INDIA」とののしられても、帰るべき家はない。日本の演歌の主題としても、まさにぴったりの曲想ではないか。
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