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「日本財団とは何ぞや」とよく聞かれる。そもそも「日本財団とは競艇の売上金の三・三%を、先見性と柔軟性をもって、幅広い公益活動を推進す財団法人……」(財団発行のパンフレット「THE NIPPON FOUNDATION」から)なのだが、詳しくはパンフレットを読んでいただけたらと思う(問い合わせ先は、日本財団広報部)。 アジア人口・開発協会(APDA)が刊行している「人口と開発シリーズ」の表紙に、当財団のニコニコマークがついているのは、同協会が、当財団の大事な援助先のひとつであることを示すものなのだ。 「日本財団とは何ぞや」を知っていただくために海外での活動のいくつかを紹介する。そこには人間の心の触れ合い、海外旅行の本にはない臨場感あふれるドラマがある。 第1話 あるベトナム系米人の半生 当財団の援助プロジェクトの要請団体はベトナム障害者援助組織。ベトナム系アメリカ人、TRAN VAN CA氏によって設立された米国内の非営利NGOだ。日本財団のほかにベトナム政府や米国国際開発庁(USAID)の協力も得て、ベトナム戦争で負傷した身体障害者や、いまだに発生する地雷の被害者などに、義手・義足や車椅子を提供し、リハビリや職業訓練を実施している。何故、財団が援助に踏み切ったのか。それはリーダーの人物像にほれこんだからなのだ。 CA氏の半生は波瀾万丈である。一九五一年、中部ベトナムの塹壕の中で生まれた。フランス軍の空襲下での誕生である。三年後、彼の兄はフランスと闘ったベトミン軍の兵士として死亡。五四年、南北べトナム分離後、トラン家は南ベトナムの地方政府に職を得たが、再び戦渦に巻き込まれる。CA氏は独学で英語を学び、サイゴンに移り、アメリカ海兵隊の通訳となる。一九七五年のサイゴン陥落の日、彼は奥さんとともに難民で満杯のハシケからかろうじてもぐり込んだ。生死の境をさまよいつつ、たどり着いたところは、フィリピンの米海軍基地。肌身離さずもっていた米海兵隊勤務のIDカードがものをいって、CA夫妻は米国に送られ、無一文の中から身を起こし、やがてワシントン郊外のヴァージニア州スプリングフィールドなど五つのメキシコ料理店を経営、高級住宅地マクリーンに百万ドルもする家を所有するに至る。 ここまでなら、よくあるアメリカン・ドリームの物語だが、彼は物質的成功に満足せず、私財を投じて九一年からベトナムでNGO活動を始めた。戦争で足を失った人々のために義足を製造したり、車イスを提供したり、手弁当で同胞の援護に乗り出したのだ。私は少なくとも一年に一度は彼とベトナムやアメリカで会う機会がある。ベトナムの活動現場での、彼との対話は私の記憶に鮮明に焼き付いている。 ボート・ピープルが成功をおさめ、ベトナムでチャリティを行う男に変身する過程はまさに劇的であった。 「オクラホマの基地に送られて三カ月後、お前は明日から自由の身だ。アメリカのどこに住もうと何の仕事をしようと自由だといわれた。自由は私のあこがれだったが、いきなり自由をやるといわれて当惑した。わずかのドルが支給されたが、どこに行くのか、何をやるのか選択のしようがない。とりあえず基地の外に出て通る車に親指を上げた。「ヒッチハィクさ」と彼はいう。何十台目かに大きなトレーラーが拾ってくれた。「二日かかって着いたところが、バージニア州のスプリングフィールドというところのショッピングモールだった」。彼はそこで荷物と一緒にトレーラーから降ろされた。 CA夫妻は、そこで掃除人の仕事にありついた。管理事務所の支配人がベトナム帰還兵だったのが運のつき始めだった。夜は倉庫の片隅で毛布にくるまって寝た。CA氏は誠実に働き続けた。三カ月経った。メキシコ・レストランチェーンのオーナーに声をかけられた。「俺の店で働く気はないか」と。掃除人として陰日向のない働きぶりが見込まれたのだ。それから十五年、CA氏はアメリカの成功物語の階段を登り続けた。 だが、ベトナムでの過去は、忘れようとしても忘れ切れるものではなかった。九〇年、父親が病気との連絡に接し、ベトナムに里帰りした。あまりの荒廃に目を見張った。足をヒザ下から失い、段ボールの上に乗って、いざる人々の多いこと。ベトナム全土で五十年にわたる戦争で四〇〇万人が死亡、傷病者は六〇〇万人といわれる。年に七〇〇人が戦争の残した地雷で新たに足を失っていた。だが、ベトナム人の見ず知らずの人々に対する関心は薄かった。「アメリカに移民したベトナム人も一〇〇万人はいる。親戚に送金し、里帰りもする。でも彼らの関心は家族・親戚・友人に限られる。不特定多数の人々の不幸は知ったこっちゃないんだ」と彼はいう。 地縁、血縁は、古今東西を問わず人のつきあいの基盤ではある。しかし、ベトナムではそれが全てだという。CA氏の血縁者では、兄も含めて十四人もの戦争犠牲者を出している。だが、CA氏は、縁者の範囲内で自己完結しているベトナム文化の行動規範から、飛び出した自分を発見した。それが彼のPHLANTHROPYの原点だった。里帰りの帰路、CA氏は、ワシントンの空港で、「俺はべトナムにまた戻るぞ」と電話した。 彼は、今では過去を心の中にしっかりと位置づけている。五軒のレストランのうち一軒を残して売却し、奥さんが経営している。「生活費はそれで十分だ」と彼はいう。一年のうち半年はベトナムで生活し、母国の同胞の援助活動を続けている。日本財団と彼の第二の人生とのおつきあいは、かれこれ五年になる。 第2話 君よ知るや悲惨の島(ハンセン病制圧プログラム) 日本財団はおよそ四半世紀の間、笹川記念保健協力財団と国連機関であるWHO(世界保健機構)を通じて、世界のハンセン病(ライ病)制圧のための援助を行っている。今日までの援助総額は約一三〇億円に達する。この資金は主として、多剤併用療法(MDT)の錠剤購入に充てられる。日本財団のプロジェクトによって、世界で一〇〇〇万人以上いたライ患者は、一〇〇万人以下に減少した。二十一世紀までにライ患者をおおむねゼロにすべく、最後の追い込みに入っている。MDTによってライは医学的には解決済みともいえるが、問題は人々の心のあり方なのだ。ライは薬によって完治するのだが、人々の偏見や差別の問題が根強く残っている。 旧約聖書の時代からあったライ病。「神が人類の犯した罪に対する罰として与えられたもの」。それが古い聖書の解釈であり、恥辱の病とされ、もっぱら世間から忌み嫌われ隔離されてきた。この病の特効薬が発明されてから五十年。今日ではライは簡単に治癒する皮膚病のひとつにすぎない。だが、こうした医療的現実と、人々のこの病を見る目との間には、まだ大きなギャップが存在している。そういう問題をどのようにとらえ、どうやって解決に導くのか。その事を考える為にハワイのモロカイ島に出かけたのである。 モロカイ島は、ハワイに八つある大きな島の中で、五番目に大きい。だがかなりの旅行通でもこの島の名を知らない人が多い。大規模な観光開発と団体のツアー客を拒絶する手つかずの秘境である。島の北岸は、東から西まで一〇〇メートルもある高い絶壁が直立している。だがたった一カ所、屏風状の崖のはるか下に、緑色の台地が太平洋にせり出している。一辺が四キロほどの三角形の岬だ。それが私の訪問先であった。 一八六六年に設立されたハンセン病(ライ病)患者の居留地である。地名はKALAUPAPA。ハンセン病の最盛期には一〇〇〇人もの患者が、島流し同然に隔離されていた。今では元患者(治癒しているが、それとわかる外形は顕著に残っている)四十五人が生活している。ホノルル空港から約四十分、太平洋の白い崖の下を海面スレスレに飛び「KALAUPAPA SETTLEMENT」に到着。 迎えに来た元患者のクラレンス・ナイアさんの運転する古いバンで見学に出かける。ツアーの相客は日本の元患者同盟会長の曽我野さん、韓国の元患者で救ライ運動家、鄭さん、笹川記念保健協力財団の山口さんらだ。まず墓場に案内される。日本、韓国、中国人の墓も多い。太平洋を見下ろす台地に、故国のある西方に背を向ける形で、墓石が立っている。風雨にさらされ、判読不能の墓碑が多い。 ハワイ諸島にハンセン病が襲ったのは電撃的だった。島々に捕鯨船が寄港する以前の十八世紀末、ハワイ人たちは病原菌に侵されていない純粋無垢の人々だった。抵抗力のない人々に、欧州と東洋から菌が持ち込まれ、ハンセン病はあっという間に伝染した。この地の東洋人の墓は、当時のハワイ王国の砂糖キビ畑の労働者として移民し、そこで発病した。無縁仏が多い。ハワイ王国衛生局はパニックに陥り、この病気を現地語で「MAI PAKE」(中国病)と名づけ怖れおののいた。累計で八○○○人の患者がこの地に強制的に送り込まれた。 患者隔離の第一船の上陸地点に近いKALAWAOに粗末な教会が残っている。「人類に締め出された十二人の女と二十三人の男たちは、大声で神を求め、悲嘆の中で、ここに教会を建立す」とあった。彼らは当座の食糧と種子と農機具が渡され、置いてきぼりにされたのだという。ある者は自暴自棄になりバクチやアルコールに淫し、強者のみが生き残る無法状態が続いたともいう。 ここは世界最大のハンセン病患者の居留地であった。この凄惨な地で十六年間の布教と救ライ生活を送り、みずからもハンセン病にかかり殉職したベルギー人のカトリック司祭ダミアン神父の生涯は、ハンセン病の世界では知らない人はいない。小説「宝島」の著者であるスティーブンソンは、彼の死の直後、この島に渡り「嫌悪すべき悪臭。ここは言葉で表せない恐怖の場所であり、かつて見たこともない悲惨の国」と評し、ダミアン神父を「信仰を同じくする人々の霊的な幸せに貢献した」と称賛している。 モロカイ島の居留地に住んでいる元患者の生活は決して暗くはない。外見上はそう見える。芝生を刈り込んだ広い庭付きの家。村にはコンビニ、ガソリンスタンド、バーと郵便局、病院と本屋がそれぞれ一つずつある。たまには気晴らしに、ラスベガスのカジノに出かけることもあるとか。だがライの恐怖を刷り込まれた世間の目はそれほど変わっていない。 「要するに人間の心の越え難い障壁は視覚上の美醜の問題ですよ。ライがハンセンと名前が変わっても、世の中の差別がなくならないのは、移らないと頭でわかっていても、外見上、醜いからだ」。同行の元患者同盟会長の曽我野さんはそういった。それが心の痛みだと彼はいう。 翌日、ホノルルの市政ホールで開かれたハンセン病患者、および元患者の「尊厳を求めて」の会合に、曽我野さんたちと出席した。「ハンセン病患者という集合名詞でなく、TOMとか花子とか個人の名前で呼んでほしい。そしてハンセン病患者の回復者は相互に助け合うだけでなく、私たちは世の中一般の人を手助けしてあげたい」。これが医療と二本立てで行われている心のキャンペーンである。日本財団はこうした運動についても支援している。日本はアメリカに比べて、“心の運動”が遅れている。その証拠に日本がハンセン病患者の隔離を廃止したのは一九九六年。ハワイ州に遅れること二十七年である。 第3話 過密海峡マラッカの安全航行 日本財団は、一九六八年以来、シンガポール、マレーシア、インドネシアの三国に囲まれたマ・シ海峡の安全航行のための援助を実施している。中東の原油を積んだタンカーがインド洋を通りマラッカ海峡に入り、シンガポールに向かうと急に狭くなる。潮流の変化が激しい上に、岩礁や浅瀬があちこちにあり、海の難所だ。日本財団はまずこの海域の海図作りに費用を出し、さらに各種の光波標識、電波標識(無人灯台)など、過去三十年間で合計九八億円の支援をやっている。 たまたまシンガポールで開催された「東アジアの安全保障会議」で同席したアメリカ退役海軍大将、元第七艦隊司令長官、元NATO軍最高司令官。ポール・ミラー氏を海峡見学ツアーに誘ってみたのである。「ほう、マラッカ海峡は十年ぶりかな」。横須賀を母校としている第七艦隊の親玉は気軽に応じてくれた。われわれ一行を迎えてくれたのは、日本海難防止協会シンガポール事務所長の川上直美氏、シンガポール日本船員センターの金子昭治氏らだった。六つのターミナルのある世界屈指の良港シンガポール。客船用のマリーナから、小さなクルーザーで海峡の難所めぐりをする。 「ようこそ提督。四つ星の大将旗をかかげておけばよかった」。シンガポール人の船長が、そう歓迎の辞を述べる。ミラー提督は、何度かシンガポール軍港に入ったことがあるという。だがその船は原子力空母かイージス艦だったろう。 「われわれの日常の仕事は敷設した浮標や、無人灯台の管理と補修です。時々、大型船の当て逃げがある。太陽電池が破壊され、夜間光を発しなくなる。日本製の電池は二十年も寿命がある。ただし付着した鳥のフンやスモッグの煤を拭いてやればですね」と川上さん。それが結構、手間のかかる仕事だという。シンガポール海峡は、年に何隻の船が通過するのか、実はそれがはっきりしない。シンガポール港に入港する隻数は一一万隻だ。だが海峡を素通りする船については通行税を徴収するわけではないから、統計はない。一日三百隻という目視による調査データはあるが、夜は監視していないのでもっと多いはずだという。 日本船については統計がある。年間二万隻、タンカーが多い。サウジアラビアから横浜まで十八日間。シンガポール沖を通らずにロンボク海峡経由だと二十一日間かかる。このコースをとると一隻につき三〇〇〇万円余計にかかる。この日は土曜日の午後だったので、残念ながらタンカーには遭遇しなかった。「早朝には、二〇万トン級のタンカーの行列が見られます。海の難所ですから視界の良い早朝に通過してしまうのです」と金子さんがいう。 金子さんによれば、船長三〇〇メートルを超える巨大なタンカーは波高五メートルの波を起こしながら通過する。カヌーや船外機付の小舟は転覆することもある。この小舟はインドネシアの漁民たちのものだ。海峡のスマトラ側で獲った魚をシンガポールやマレー人に売り、米や布などに換える。獲った魚は炎天下では半日で腹がふくらんでしまうので、海水で冷やしつつ大急ぎで洋上の取引きをすませ、日没前に帰途につく。我々一行のクルーザーは、その種の帰り舟に何隻も遭遇した。 古代、中世のこの海峡は、スマトラとマレー半島の南北の通路だった。その後、中国、インド、欧州の三角貿易を開発した欧州人によって東西のシーレーンに変わったのだ。 「海事にたずさわる人間がこんな事をいうのもなんですが、海を畑と考えるものはこの海峡を南北の通路と思い、道路を考える立場の国は東西の近道とのみ考えてしまう。そこが難しいところです」と金子さんはいう。国際政治的にいうなら、巨大な近代文明という強者と、細々と続く土着文化の小さな“文明の衝突”が、日々狭いマ・シ海峡の文明の十字路で起こっているともいえるのではないか。 日本のシンガポール旅行者は年間一〇〇万人を超す。しかし飛行機でチャンギ国際空港に入る旅行者には、マ・シ海峡の存在さえわからないだろう。日本で発行の旅行案内書のどのページを繰っても「マラッカ・シンガポール海峡」なるものは掲載されていないのだ。だが通常の旅行者の死角にこそ、興味深い、ドラマが展開しているものなのだ。日本財団は、シンガポールの目抜き通りを通る二階建てバスに 「日本財団はマラッカ海峡の安全航行を心から願っています」 という趣旨の広告を掲載する。マレー語、英語、中国語、タミール語で。 ここに紹介したエピソードは、一九九三年から毎号、雑誌「財界」で執筆した約二〇〇本の評論の材料の一部を加筆したものです。 筆者記
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