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著者: 曽野 綾子  
記事タイトル: 救援の手?断るのは失礼なのだ  
コラム名: 自分の顔相手の顔 24  
出版物名: 大阪新聞  
出版社名: 大阪新聞社  
発行日: 1997/02/11  
※この記事は、著者と大阪新聞社の許諾を得て転載したものです。
大阪新聞社に無断で複製、翻案、送信、頒布するなど大阪新聞社の著作権を侵害する一切の行為は禁止されています。  
   韓国のハンセン病の村の経営の手伝いをしていることもあって、或る時、韓国のお茶の席でお礼を言われたことがあった。
 「今はたまたま日本がお助けする側になっていますけれど、地震か何かあったら、その時はどうぞ助けてください。韓国とはお近いんですから、一番早く救援の手が届きますもの」
 と私は答えたのを覚えている。
 相手はその時、韓国が日本を助けることなんかあるだろうか、と思ったというのだが、その機会は、意外に早くやって来た。阪神・淡路大震災である。
 あの時、早々と飛んで来た大韓航空の貨物機の大きな扉が開くと、中に救援の飲料水がぎっしり積まれている光景がテレビで映し出された。運命はどちらにも助けられるチャンスと助けるチャンスを用意していたのである。
 ナホトカ号の重油流出事故で、政府は救援の手を断ったとかマスコミはしきりに書いている。真実はわからないが、昔から日本では、できるだけ人の助けを受けず自分のことは自分でやるのが美徳と思われていた。しかし私は、それは間違っている、とこのごろ思うようになった。人を助けるというような機会は、独り占めにしないでむしろ皆に分け与えるのが当然だと教えられたからでもある。
 もっともそんなことを言うと、それを変に解釈する人がいて、「お前にオレを助けさせてやるよ」などと言うかもしれないが、こういうニセモノを断固として排除するのも、良識と勇気の一つに数えられるだろう。
 車椅子の人と外国を旅行していると、教会の階段のところなどで、突如としてどこからともなく助っ人が現れることがある。そういう時も日本人はえてして「いいえ、けっこうです。大丈夫です」と断ったりする。しかしこの場合、断るのは失礼なのだ。相手にも人助けをする機会を分つのが礼儀なのである。
 こういう助っ人は、階段の上まで車椅子を担いで上がってくれると、多くの場合、にっこりするだけで黙って去ってしまう。私だって「ありがとう」くらいなら、ドイツ語だってフランス語だって知ってるんだぞ、と思っても、何語でお礼を言うべきか考えているうちにいなくなる。
 困った時には堂々と助けてもらって、深く感謝し、その感謝をまたどこか別のところで返す気持ちを持つことが、むしろ人間や国家の大きさを示すことになるだろう。その場合、来てくれた人をどこに泊めるか、などと心配するから援助を断るのだろうが、救援の行為に慣れている人や組織なら、自分で自分の生活手段は携えて来るのが普通である。つまり装備さえ持てば、大地か床がある限り、どこにでも寝られるということだ。
 援助される技術もまた、子供たちに教えねばならない。そのためにも「援助交際」などという破廉恥な発想に対しては、大人たちがはっきりと怒りを示す姿勢を忘れないことだ。
 



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