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一九九七年六月十日 朝十時から、日本財団で執行理事会。 財団は新しい支援の方向に向かう。青年海外協力隊の事業を支援するために「協力隊を育てる会」という社団法人がある。隊員は周辺に自分がしたい仕事があると「小さなハートプロジェクト」に申請し、それを民間の賛同者が支えているが、今年から、試験的に日本財団も支援することにした。今年は数百万円程度だが、将来は日本財団独自の計画で、支援を拡大して行くことも可能だと考えている。 青年海外協力隊を支援すべきではないか、と考えたのは、今年初め日本財団がラオスに入れた薬品が実際に間違いない数量が届けられているかどうかを、私自身が調査に入った時、ヴィェンチャンで青年海外協力隊員のすばらしい人たちに遇ったのがきっかけである。 私たちは日本の組織なのだから、できたら日本人のこうした活動を支えたらいいと思った。正直なところ、国連関係の組織など、末端に行くとあやふやな面が出て来るところを支援するより、日本人同士で、仕事の成果の追跡が可能なところに送る方がいい。帰国後すぐ「協力隊を育てる会」の会長の中根千枝さんにお会いして、こちらの意向を伝えた。 一九七五年春、私は中根さんといっしょに日中国交回復後に初めて政府から派遣された文化使節団の団員として中国へ行った。そして二週間の間いつもいっしょの車に乗り、親しくなった。そんなことでもなければ、私のような小説書きが、当時皆が憧れていた高名な学者と親しくなるチャンスなどなかった。 それから二十二年後に、こうして二人が心理のバリヤーを感じずに話ができる立場にいたことは不思議な偶然である。 「小さなハートプロジェクト」は上限を三十万円と決めたかわいらしいものだが、申請者は誰も真剣である。 今回、引き受けることになったのは、たとえばジンバブエの老人ホームの設備改善である。このホームはジンバブエ西部に位置するマコー二地区にあり、鈴木淑乃隊員の貴任においてプロジェクトを実行するものである。ここには、六十歳以上の、身寄りのない老人四十数名が暮らしている。車椅子、ベッド、毛布などの数も足りなく、現在使用可能なものも、老朽化している。しかし保健省の予算はないという。 ジンバブエの内陸部が冬季は零下にまで気温が下がるとは知らなかった。老人たちは少量ながら、トウモロコシまで作って自立を図っているが、三分の一は歩ける状態にない。室内の状態を示す写真も添えられている。剥き出しの染みだらけの壁、ヘッド・ボードもないベッドに毛のすりきれた軍用毛布みたいなのがかけられている。私物らしいものも全くなし。一人の老人はベッドがないらしく土間の上にうすべりを敷いて寝ている。寒さが床からしんしんと伝わって来るだろう。 一九九五年、ジンバブエに入った時は、ここはアフリカとしてはまだいい国だと思った。昔背のローデシアである。 車椅子五台分の申請額は十三万七千百五十円、一台二万円ちょっとにしかならない。毛布は一枚三千百六十五円。それを十枚。三千円の毛布は日本では安いものだが、恐らく普通の一家の収入がそれくらいだろうから、一枚の毛布を買うことは大仕事であろう。 午後、日本工業倶楽部で講演をした後、十七時十六分発の新幹線で山形へ向かう。瑞々しい山々と鮮やかな夕陽。こういう心躍る光景の中ではいつも死を思っている。 六月十二日 吉村作治、田辺兵昭、新井章治のサハラ縦断のメンバーが集まる。サハラヘ出掛けてからもう十三年が経った。 文明の気配もないところで若者に生き残りの方法を仕込むことを、吉村さんは「奴隷を募集して」と言う。慰安婦問題だけでも最近の人たちはいきり立つのだから、奴隷などという言葉をきいただけで拒否反応を起こして自家中毒になる。奴隷制度というものが、日本人には一番わからない観念の一つである。 私は奴隷制についての資料を少し買い集めている。明日はその資料を一度集めて確かめてみようと思う。 数十頭のラクダを一人で連れてサハラを旅していた男のことを思い出した。ラクダの脚がむかでみたいに数十本あるように見えたのは、ラクダが一列横隊になって歩いていたからだ。夜になると、ラクダの持ち主は荷につけたわずかな燃し木を焚いて、甘い紅茶を作る。水は豊かさの証、お茶は文明の証、砂糖は家族の愛の証、である。だから砂漠で飲む紅茶はやたらと甘くなければならない。 六月十三日 武蔵野市で日本病院学会の講演。聖母マリアの奇跡を希って、町中に病人が溢れているフランスのルルドという町のことについて少し触れる。人間は、健康と病気とこみで人生を生きていることをこの町は感じさせる。ヒポクラテスも書いている。「賢い人間は健康を最も大きい祝福と考え、病気は思考において有益なことを考える時だ、と知らねばならない」。
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