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もうあの部長ったら私の努力を何だと思ってるの! 恋人なんだから少しは私の忙しさもわかってよ! まったく今年の新人ときたら…、そんな様々なことであなたの心は悩み、疲れてはいないだろうか?ではここで提案。無理に肩肘張ったり、人とのつきあいで疲れたりしない生き方を考えてみませんか? 取材・文/木村博美 帰宅するなり、ふう?ッと溜息をついてるあなた。今日も一日「いい人」をやっていたのではないだろうか? 人は誰でも悪口を言われるより、「いい人ね」って言われたい。でも、職場でもプライベートでも自分を良く見せようと頑張り続けていると身が持たない。心が擦り切れる。人づきあいが鬱陶しくもなってくる。 曾野綾子さんの小説やエッセイなどを通じて紹介する著者の敬友録『「いい人」をやめると楽になる』は、そんな女性たちへの福音書。そこには、心地よいつきあい方だけでなく、ささやかな日常をふくよかに生きるヒントがちりばめられている。 完全にいい人などいない
私は、自分がかなり狡くてよくない人間なのだ、とますますはっきり自覚するようになった。しかし、いい人をやめたのはかなり前からだ。理由は単純で、いい人をやっていると疲れることを知っていたからである。 (まえがきより)
「私、本当に狡いんですよ。嫌なことは人に押しつけて楽をしたいとか、もし絶対に罰されないのなら銀行からお金を盗んでみたいとか思いますから(笑)。若い頃はいい人になりたいと思ったこともありましたけど、自分の心を眺めたらとてもいい人にはなれないし、いろんな体験を重ねるとわかってくるんですね、すべてにおいていい人なんかいないって。本来、人間というものは性悪なんですよ。 人はみんないい人だと思うのは、修羅場を越えていないからだと思います。戦争もない、貧困もない、生きるか死ぬかっていう社会的状況もないから、そういう嘘がまかり通る。もし船が沈んでボートで漂流していて食糧がなくなってきたら、最後のパンを盗んでも食べたくなる、という状況を考えたこともないんでしょうね」 そんな場面に遭遇すれば、誰より先に泥棒になるかもしれない。だからといって、人間の価値がそれだけで決まるわけではない。「人は誰でも悪い面と崇高な面の両方をもっているんです。悪い面もあるけれど、そういう人間が人の命を救ったりする。そこに分厚な人間の人生というものがある。印象派が光を描写するために濃い陰を描いたように、悪に対しての深い理解と承認がなければ、人間の立派なところもわからないと思うんですよ」 どんな人間の心にも悪という暗い陰が宿っている??。幼い頃からカトリックの学校で育ち、高校時代に洗礼を受けた曾野さんは、そのことを比較的若い時からわかるようになったという。
キリスト教は性悪説だから、人間はそのままにしておけば、人間の尊厳を失うほどに堕落することも簡単だ、という話で聖書は満ちている。しかし信仰によって、あるいはその人に内蔵されている徳性によって、人間を超えた偉大な存在にもなれる、ということも、私たちはきっちりと教えられたのである。つまり分裂した心くらいなければ、人間ではない、ということである。 冷酷と暖かい心とは、どちらも、人間の能力を最大限に伸ばすのに役だつ。暖かい心で立ち直る時もあるし、誰も助けてくれない、と思い定めた時、私たちは思いがけない力を発揮することもある。だからどちらもないと私たちは生きていけない。 『悲しくて明るい場所』
向上心は醜いものである 一途に前向きに頑張ることは素晴らしい、と世間は賞賛する。そのせいか、やたら向上心の強い女性が増えてきたけれど、曾野さんの小説の世界ではこんな会話が交わされる。
「あのお義母さんという人には、誠実病といいますか、向上病というか……そういうものがあるでしょう」 「甲状腺ですか?」 「いや、常に努力して、よくならなければならない、って思いつめる向上心の向上です」 「ああ、あれは誰でもかかったら、そうとう重い段階まで進んじゃう病気だよ」 「そういう性格だから、いろいろな、人間関係の重圧なんかもあったらしいんです。一般的に女性の方が誠実ですからね」 『夢に殉ず』
「向上心の強い女性たちって努力家なのかもしれませんね。でも、私は母から向上心は醜いものだと教わったんです。何事も、ただ一直線に邁進するのは良くない、と。人生全体の美しさというのは、何かができればいいってものではないと思うんですね。挫折の美しさもあれば、終生言わなかったことの美しさというのもある。志に反してやれなかったことにも、また、やらなかったことにも意味があると思いますよ」 以前、曾野さんに海外赴任の話がいくつか舞い込んだことがある。そのうちの1つは「本当にやりたい仕事だった」そうだが、その頃、母親と舅、姑とも同居していたために日本に留まった。 「といって、自分の仕事を犠牲にしてお尽くしした、なんてことではまったくない。いい加減な嫁でしたから(笑)。よく女優さんが家庭も完壁にやりますからとおっしゃって結婚なさるけど、1日24時間しかないのに、仕事も家庭も完壁にやりこなせるわけがないと思うんですよ。私は、絶対に無理だと思うことは諦めるんです。 常に残す人生に慣れることを、若い時に新聞記者から教わったんですね。旅客機を乗り継いで世界を早周りするという取材でご一緒したのですが、その方は次の空港に着くまでに非常に多くのことをやらなくちゃいけない。でも、たいてい間に合わない。その時、おっしゃったんです。常に人生の順序を決めている。プライオリティーオーダーと言って、いちばん必要なことを順にやっていって、後は残っても気にしないって。そういうふうにして、私は、まあ、ほどほどに生きてきた。友人に『ほどほどでいいやって思っているから、思った通り生きたんじゃないの』と言われるんですけれど、その通り、って感じなんですね」 キマジメな努力家は、人に対しても厳しくなりがち。この“ほどほど”の精神は、自分だけでなく他人も気楽にさせるオーラとなる。 他人のことなどわからない 誰でも自分の評判は気にかかる。だから少しでもいい評価を得ようと努めるわけだが、この評判ほど当てにならないものはないという。「本人以外にその人のこまかい事情を知っている人はいないのに、その知らない他人が言うことなど正しいはずがない。だから私、どんなに親しい人のことも一切言わないことにしているんです。人が亡くなったり離婚したりした時に、すぐコメントする人は好きじゃない。今の週刊誌は実にひどいですよ。あの人はこうらしいとかああらしいとか、すべて架空のことをもとに言っているんですから」 作家であり、また日本財団の会長であるという仕事柄、曾野さん自身、マスコミで取り沙汰されることも少なくない。 「根も葉もないことまで言われますよ。昔、曾野さんは電力会社に金をもらって原発賛成派のようなことをやっていると書かれたことがあって。私、やっていないから、うれしくてすぐ手紙を書いたら、もしかすると曾野さんはそうでないのかと思えてきましたって(笑)。 そんな人、いっぱいいます。私がダムの取材をしていた頃、ある女流作家がダムの工事現場を見て、人間は自然を征服したと書いている』という記事が載ったんです。また喜んで、その雑誌の編集部に大変おもしろいので恐れ入りますがどなたがどこでそうお書きになっているのか教えてくださいって電話を入れたのだけど、全然返事がない。私、そういうふうに書いていないし、それとは逆の話を現場で聞いてますからね。ま、ほっときゃいいんですわ、そんなこと。真実ではありませんから」
「別にはっきりとした神さまや仏さまがいるわけじゃないのよ、お母さんの心の中に……。だけど、なんだか、どこかで人間の心を全部見ていらっしゃる方があるような気がしてるのね。本当に怖いのは、その方だけだ、という気がするの。後はどうでもいいのよ。人は他人のことを勝手に決めつけるけど本当はまったくわかっちゃいないんだから」 「わかってもらえないのは辛いよ」 「だけど、最初からそんなものだ、と思っていれば、楽なこともあるよ」 『極北の光』
悪くて当然、から始めよう 「私は徹底した悲観論者なんです。だから危険なところに行くのに割と適している。あらゆる悪いことを考えますから。この前もアフリカに行ったとき、2つの飛行機に分乗することになったのですが、相手のメンバーを見てすぐ手鏡を渡したんです。飛行機が不時着した場合、救難信号を送るのに鏡が絶対に必要なんですね。でも、向こうにはシスターしか乗っていなくて。シスターはコンパクトなんて持っていませんからね。そういうことが一瞬にして、頭に浮かぶんです。落ちることを前提にしているわけだから、落ちなかった時の喜びったらない(笑)。いつも最悪のことを考えて旅行していると、大抵いいんですよ」 どんな過酷な旅も大きな喜びに変える曾野さん流の極意。これは、人間関係にしても同じこと。 「悪い人だと思っていると、大概いいんですね。だから私は得しています。あの人はいい加減だし、人の悪口は言うし、って思われていると、使い込みをしないというだけでも点数を稼げますから(笑)。その点、いい人は、ちょっとそうでない面を見せるだけですぐ非難されますから、お気の毒ですね」
悪くて当然と思っていると、人生は思いの外、いいことばかりである。しかし社会は平和で安全で正しいのが普通、と信じ込んでいると、あらゆることに、人は不用心になり、よくて当たり前と感謝の念すら持たないようになり、自分以外の考え方を持つ人を想定する能力にも欠けて来る。それだけでなく、少しの齟齬にすぐ腹を立て、失望しなければならない。私はそのような残酷な思いを若い人にはさせたくはないので、現世はどんなに惨憺たるところかということを、むしろ徹底して教えたい、と思ってしまうのである。 『二十一世紀への手紙』
価値観の違いを楽しむ 「自分と考え方が異なる人に会った時、かくも違った人がいるということに驚いて笑えないと困りますね。私の仲間はみんな、ひえーっと喜ぶんですよ。そして笑って、決して『あなたはお偉いわね』とか、『実は、私もそう思っていたの』なんて言わない。そのまんま違うことに驚いて、喜んでいる。だから、とっても楽しいですね、つきあいが」 60歳になった時、その仲間たちと韓国へ“還暦旅行”に出かけたことがある。 「みんな、それぞれに買う物が全然違うんですよ。ある人はにせブランドを買い、ある人は食べ物に走り、ある人は『死ぬまでに全部使い切れるの?」って言われながら、陶器を山ほど買っている。それを見て、みんなで『今度、サワラの西京漬けでも焼いて、その器で出してよ』なんて、ご馳走にあずかろうともくろんでいたり(笑)。そんなふうに、お互いに同調せず、反抗せず、あの人は変な人だとは言わず、一人ひとり好き勝手なもの買ってみんなで笑ってましたね。私、素晴らしい女たちだと思いました。みんな、すごく“いい女”になったな、って。 それぞれの生き様と好みをきちんと確立していて、人と同じでないことにたじろがず、自分とは違う人を拒否せず、決して争わない。そして、どんな相手にもどんな生き方にも、どんな瞬間にもどんな運にも意味を見つける。これはもう、芸術家ですよ」 自分の弱みを見せてみる
人は頼むとたいていのことを教えてくれるし、その得意とするところで働いてくれる。(中略)そして私はそのことで得をしたのだから、深く感謝し、相手に対する尊敬を自然深めることになる。たぶんそういう空気は相手にもよく伝わるものだろう、と思う。 『ほくそ笑む人々』
「私、弱みを見せないつきあい方をしたことがないんですね。たとえば旅先でスカートの裾がほつれちゃうでしょう。私は裁縫ができないので、友だちの好意に甘えてやってもらうんです。どうも、すみませんって。そういうところは、勝ち気じゃない。私には小説を書くという専門職がありますから、それ以外は全部譲れるんですね。だから何か自分の専門を持てば、誰でも楽になるんじゃないかしら。 銀行に就職したら、手形のサインができるくらい銀行業務に精通する。デパートにお勤めになったら、自分の売場ではない売場のこともお客さんに聞かれたらすぐ答えられるほどになる。仕事に限らず、お料理はプロ並みというのでもいい。そうすれば、友だちに、あなたって刺繍が上手ねえって素直に言えるんじゃないですか」 アフリカに行かないと・・・ 「人をバカに思ったり悪口を言ったりするのはいいですよ。でもバカな上司でも勤務が終われば、12時間くらいは別にいられるわけでしょう。土、日はお休みなんだし。私も、悪い上司は困ると思いますが、もっと基本的な苦悩があると思うんですよ。私は、それに触れて生きてきた。それは、アフリカですよ。生きられない、食べられない、体を洗ったこともない。動物と明らかに違う生活をしたことがない。そんな人たちのことを思ったら、バカな上司ぐらいなんですか」 曾野さんは、毎年、ジャーナリストや中央官庁の若手官僚とアフリカのマダガスカルやルワンダなどへ“世界最貧を見る”旅に出る。日本の行政とマスコミを率いる人たちに世界のどん底の貧しさを知ってほしいから、と日本財団で自ら企画して実現させたものだ。 「私はアフリカに行くたびに襟を正して帰ってくる。水が飲める、食べられる、病気になれば病院にも行ける。こんな生活はアフリカでは夢物語なんですよ。日本人はアフリカに行かないと、人間にはなれないという気がするんです」
私たちは物質的に豊かになると同じ速度で心が貧しくなった。この皮肉な相関関係を私たちは充分に認識して危惧すべきなのだが、その点はほとんど気づかれていない。 『神さま、それをお望みですか』
小説家的視野を持ってみる 「この間、カンタベリーべルという花の種を蒔いたら、いっぱい苗ができたんです。でも、本物の周りに偽物の苗がものすごく生えていたの。私はけっこう園芸に慣れているので、本物そっくりのその苗を抜いて捨てていたのだけど、もし私に刑務所に入っている息子がいたら、決して抜かないだろうと思った。だって、刑務所にいるのは、どこかおかしな子でしょう。たとえば、そういう息子を持つ老婦人が誰かとその苗を植えていて、『奥さん、それは雑草ですよ』と言われる。けれど、その人は黙々と本物といっしょに植えていく。そういう短編が一つできるんですね。 偽物の苗を植えるというのは、園芸から見たら良くないことですよ。でも、人生から見たら、すごいことなんです。そういう目で見ると、ごく普通の日常生活にも大ドラマが隠れている。だから私、書くものがなくて困ったことがない。作家はそれを書くだけで、記録しなくても作家の目を持った人はたくさんいると思います」 とても、そんなに研ぎ澄まされた感性はない。けれど、ほんの少し視点を変えることができたなら、どんなにつまらなく見える人にも意外なおもしろみを見出せるかもしれない。とことんケチな同僚が、破産した友人に送金しているとしたら……。威張り散らしている上司が、家では愛妻の言うがままだとしたら……。なんだか、心に刺さっていたトゲも萎えてくる。 聖書が教えてくれること 大らかでいて、鋭く人間の本質を捉える。曾野さんの複眼的な視野は40歳を過ぎてからますます広がった。それは、「遅まきながら、聖書を勉強した」からだという。 「聖書に、あなたの敵を愛しなさいという言葉がありますでしょう。私、昔は『カマトト言うな』って思ったんですよ(笑)。そしたら聖書の愛には親子の情愛、性的な関心、友愛、それからアガペーという愛があって、あなたの敵を愛しなさいと言う時の愛はアガペーなんですね。アガペーというのは、努力し、嫌いな人に対してでも心から愛しているのと同じような行動をとる理性の愛なんです。だからボランティア活動も、いい気持ちのうちはまだ本物ではない。それは友愛に過ぎませんから。アガペーのいちばんの悲痛な形が赤十字なんです。傷ついた敵を撃ち殺さないで保護しようとする。敵はやっぱり憎いし、殺したいですよ。でも、そういう理性による愛だけが本当の愛だと聖書は言うんです。 もっとわかりやすく言えば、嫌な姑さんがいたら無理に好きになることはない。嫌なままでいいけれど、自分の母親だったら自分はどうするだろうと思うことを意識してやりなさい。嫌いな嫁がいたら嫌いなままで結構、しかし自分の娘ならどうするだろうかと思うことを意志の力でやりなさい、ということなんですね。すごくいい定義でしょう」 ちなみに、このギリシャ語「アガペー」は、ラテン語の「CARITAS」にあたり、英語の「CHARITY」が生まれたという。 「聖書には、正しい理論の反対も正しい、ということも書いてあるんです。これもすごいことですよ。私は聖書を勉強して、度のあった眼鏡かけてもらったように人生がよーく見えてきた。どんなことにも全部意味があるように思えてきた。何もかも、本当に自由な精神で見られるようになりましたね」 聖書に登場する逸話をわかりやすく紹介しながら人間関係の問題を語ったエッセイ『聖書の中の友情論』には、こんなくだりがある。
人の生き方に好みを持つのは仕方がないでしょう。立場を変えれば、誰でも、少しは相手のカンにさわるような生き方をしているものです。しかしそれを道徳的に裁くと、友情は壊れてしまいます。 他人の生き方が気にならないためには、自分の生き方が、確実な選択のもとにある、という確信が要ります。別に正しい生き方をしているという絶対の自信を持てということではありません。こう生きるより仕方がない、という程度の見極めでいいのです。たとえ貧乏をしていても、たまたま裕福であっても、その人にとってよく合った暮らし方というものはそうそう多いものではありません。自分にとっていい生き方というのは、決して他人と同じに生きることではないのです。
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