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「週刊新潮」四月十六日号で、山本夏彦さんが「田村隆一受賞す」というエッセイを書いておられた。山本さんの時代だと、当然作家がアウトローであることの光栄を持つべきだ、という空気を覚えておられる。私も小説が書きたくて「修行」を始めた十代の終り頃、母は親戚中の非難を浴びた。一応まとも風に育っている娘が「身を持ち崩す」ような生活に入ることを、何であそこの母親は許すのだろうということである。私は当時としては得になる仕事を選ばなかった。身を落とすことを覚悟で書いた。だから今でも気分はいい。 私も田村さんと大原富枝さんの受賞が嬉しくてたまらない一人である。田村さんとは、アイオワの大学でしばらくごいっしょした。 山本さんも書いておられる通り、田村さんは何回か結婚し、離婚し、また結婚した、ところをみると、もう女なんかこりごりではなく、いつも女性に夢を残しておられたのだろう。また後から現れる女性にとっては、離婚の「前科」があるにかかわらず、魅力ある方だったのだ。 アイオワでは田村さんはよれよれの和服を着て、何十冊も英語の名訳があるのに、ほとんどと言っていいほど英語を喋らなかった。その代わり、夫の三浦朱門を通訳に使った。 「この時計は、私の妻の夫が、私にくれたものです。ミスター・三浦。通訳、通訳」 田村さんは命令する。つまり生活の達者ではない田村さんは、アメリカへ来る日にも腕時計を忘れて来た。別れた奥さんも現在の夫と送りに来ていたが、その夫が「田村さん、腕時計がないとご不自由でしょう。僕のをつけていらっしゃい」と言ってくれたのがその時計なのである。 三浦朱門は田村さんに命令されると、何の解釈も付け加えずに「私の妻の夫が、この時計をくれました」と英語で言う。すると、まじめなアメリカ人は混乱し、小声でそっと、「ミスター・田村はイスラムか?」などと聞くのであった。イスラムは一妻多夫ではなく一夫多妻なのに、混乱してしまったのである。 たった一つ山本夏彦氏の説に首を傾げたところがある。 「田村隆一が藝術院賞になったと聞いて、何となくびっくりした。(中略)文士や詩人はアウトローで、国から勲章やごほーびをもらう存在ではない」 国と立場が違うこともあろうし、同じになる場合もあるだろう。文士や詩人が、常に国に反対の立場を取らなければならないとしたら、それはマイナスの形で国の存在を権威として認めているのと同じで、一種の捕らわれ方になる。勲章もごほーびも、すべては昔のグリコ(という名のアメ玉)についていたおまけのおもちゃである。若い人にはわかるかな? それよりも田村さんは、賞金がつくことを喜んでおられたそうだ。文士も詩人も、金、女、骨董、競馬馬、鰻や大福餅、などというものは好きになってもいいのではないか。藝術院賞にはお金がつくのだ。
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