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十月四日付けの東京新聞で、私は初めて、環境庁が、地球温暖化防止のために「百万人の誓い」という省エネ運動をしていることを知った。 この運動がスタートしたのは六月だったそうで、「冷房は二十八度以上」「車をなるべく使わず自転車や公共機関を利用」などという十二の項目のうち幾つを誓うことができるかを、参加用紙に丸をつけて、電話やインターネットで自己申告をしてもらう。その目標が百万人で、二百万円かけてビラも印刷したが、目標の百万人には遠く及ばず、集まった誓いはわずか約二万八千人だと言う。 善意なのだろうが、人間も世間も知らない「お坊ちゃまお役人」の考えそうなことである。百万人集まれば、企画者がいい気分になることは間違いないが、ほとんどそれだけの効果しかない。 こういう発想にふれると、私は瞬間的に聖書の有名な個所のことを思ってしまう。それは「マタイによる福音書」の5・34というところで、次のように書かれている。 「しかし私は言っておく。一切誓いを立ててはならない。天にかけて誓ってはならない。そこは神の玉座である。地にかけて誓ってはならない。そこは神の足台である。エルサレムにかけて誓ってはならない。そこは大王の都である。またあなたの頭にかけて誓ってはならない。髪の毛一本すら、あなたは白くも黒くもできないからである」 表現はいささか古典的だが、二千年前から、人間はたやすく立てた誓いを破るものだ、という自己認識があった。今の人たちにはその恐れさえない。ことに日本人は「私は無宗教です」と胸を張って言う人が多いのだが、そういう人たちに限って平気で誓いを立てようとする。誓いとは「神のある人」しかできない行為だが、同時に神のある人はまた恐れを知るがゆえに禁じられているものだ。こういう一般的な教養を、この企画に係わった環境庁では誰一人知らなかったことになる。 私は省エネの癖を、勤め先で教わった。生まれつき視力のよくなかった私は、とにかく明るいことを好み、家の中では電気をつけっぱなしにするのが好きだった。ところが、今勤めている日本財団では、理事たちが部屋を出る時、一々電気を消す習慣ができていた。 それで私もその「社風」にすぐ染まることにした。これは省エネの目的より、電気代を節約しているからだろう、と私は理解していた。現実的には、誓いよりも、電気代を安くしようという実質的な情熱の方がずっと運動を確実に推し進めるような気がする。 室温は外気温と差がない方が、確かに自律神経失調症にかからない。しかし「環境家計簿をつけて環境に優しい生活かチェック」せよとは何という幼稚な発想だろう。私の家では、家計簿をつける暇があったら本を読めというのが夫の厳命だった。もっとも私は家計簿もつけず本も読まず、すぐ眠ってしまった。これが本当の省エネというものである。
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