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飛行機より列車の旅がいいときがよくある。それは旅の思い出がはっきりと残るからだ。とくにヨーロッパでは列車での移動が簡単であり、しかも移動費用は安くて済むというメリットがある。「国際列車」という一種独特の雰囲気の中で、旅を続ける面白さと醍醐味は飛行機では味わえないもの。今回はパリからマドリッドまで列車で移動したが、道中でのハプニングは筆者ならではの出来事といえる。以下、エッセイ風にマドリッドまでの「珍道中」をレポートする。
■ 汽車の旅
ご用とお急ぎの向きでないなら、海外旅行は汽車が面白い。飛行機だと、なんとかやりくりして、ビジネスに乗り、エコノミー症候群とやらを免れたとしても、機中での出会いの面白さとか、ハプニングなどまず起こらない。万一、ハプニングがあったとしたら、それはハイジャックか事故であり、「ハイ。それまでよ」になりかねない。
その点、汽車の旅は、相乗り客との対話や、思わぬ出来事などバラエティに富んでいる。取って置きの話をご披露しよう。
いまから十年前、私はパリからマドリッドまで汽車に乗った。当初の予定はパリで一泊の後、翌日飛行機でマドリッドにいく予定だったが、パリのホテルはべら棒に高い。パリでの用件は、ひとりの人物に会うだけだった。用件を済ませて気が変わったのである。
「オイ、君。夜行列車に乗ろう。ホテル代を浮かして、ウマイものを食おう」。同行の若き国際政治学者である川上高志君(現・防衛研修所教官)に、そう持ちかけた。1990年5月の話である。
■ イラン行き?
パリ南駅に出かけ、マドリッド行きノンストップ「国際特急」のティケットを求めたら、満席とのことで、次善の策として深夜11時30分発の国内寝台特急を予約した。駅裏に、日本人経営のすし屋を見つけ、3時間ほど飲んで食い続けた。ワインと刺身は意外に合うものだと思ったものだ。ほろ酔い気分の二人は、駅のロッカーに預けた大荷物を引きずって、一等の二人用コンパートメントの客となった。
ルンルン気分の若き川上君を制し、私はこう云った。
「オイ。この汽車の行き先を確かめたか。行き先が“IRUN”と書いてあるぞ。フランス語の発音だと、まさにイランだ。本当にマドリッドに行くのかね」
彼は、駅員に確かめるべく、ホームに降りた。
「驚かさないでくださいよ。IRUNがイランである分けないでしょ。スペイン側の国境の村の名前だそうです」。間違いなくスペインに行くと保証されて、二人は気が大きくなった。一泊3万円もするホテル代を節約したうえ、航空運賃の払い戻しも後刻入るとあって、また酒盛りを始めたくなった。だが深夜特急とあって食堂車はない。そこで車掌を呼んだのである。
「ムッシュー。ワインとオードブルはないかね」。そう英語で云った。「この列車のお客様は、ほとんど就寝されるために乗車しています」。苦り切った表情の彼は、片言の英語で、そう云った。洋の東西を問わず、こういうときは、心付けが必要だ。5米ドル札を一枚渡した。車掌は、ビックリした表情で、しばし札を眺めている。
酔眼檬瀧。「しまった」。なんとそれは20ドル札であった。相好を崩す…とはまさにこのこと、車掌は「お待ちください」とか云って姿を消した。
20分ほどして車掌がドアをたたいた。安物のワイン一本と、少々のハムとチーズの切り身を持って戻ってきた。「金はいらない」。彼はニコやかな表情でそう云った。多分、彼の弁当の一部を進呈してくれたのだろう。
「あなたのこと、きっと日本のヤクザの親分だと思ったんですよ。あなたの英語、酒飲むと低音でゆっくりしゃべる癖がある。それが人に恐怖心を与える。札ビラをきったりして。シカゴのマフィア映画みたい」と川上君。何はともあれ、ちょっとしたハプニングを楽しんだのである。
■ バスク地方
翌朝、午前7時。スペインのIRUN駅に到着した。後刻、地図で調べたら、ピレネー山脈の西側のビスケー湾に近い、バスク地方の小さな村であった。ここから、マドリッドまでスペインの国内特急が待っていた。小さな大八車を曳いたポーターが近寄ってきた。5ドルで跨線橋で繋がった反対側のホームの列車まで連れていってやると云っているらしい。私たち二人は、荷物を曳く彼の後に従った。
大八車で跨線橋の階段をどうやって登るのか、興味深かったが、なんと乗り継ぎ客の列とは反対方向の、ホームの先端に連れていかれた。徒歩で線路を横切り、まだ誰も乗っていないスペイン国鉄の車両に乗り込んだ。こちらは一等車のない4人向かい合わせのローカル列車だった。
「イミグレーション(入国審査)とカスタム(税関)はいいのか?」。ポーターにそう叫んだら、「OK、OK」というだけで、埒があかない(EU発足以来、いまでは両国の通関はほとんど、フリーパスになったが、当時のフランス、スペイン国境は、結構うるさかったのだ)。
この予期せざるフリーパスのスペイン入国で、何か儲けものをした気分であった。
川上君とともに車窓のバスク地方の初夏の景色を満喫した、ちなみにバスク地方とは、両国国境にまたがるピレネー山麓に住むフランス系でもスペイン系でもない人種の住む土地なのだ。言語も、ラテン系であるフランス語やスペイン語とは共通性がほとんどない。
バスク人は「我らの祖先はこの山の中から湧いて出てきた。だから、他のヨーロッパ人とは異なる」と自称している。司馬遼太郎の『街道を往くシリーズ、南蛮への道』によると、バスク語は孤立性の強い言葉で、何故か日本語に似たところがあるという。
「KORIBAKARIDA」は、まさしく「こればかりだ」の意味だと司馬氏は書いている。もっとも、これは帰国後、仕入れた知識で、当時は、ヘミングウェイの『誰がために鐘は鳴る』の現場であることだけは知っていた。
1936年、独裁者フランコ将軍が共和制をぶち破るべく、ヒトラーとムッソリーニの支援のもとに内乱を起こした、フランコにバスク語を話すことも禁じられたバスク人は民族自決と自由を求めて、フランコに対して武装蜂起した。アメリカをはじめとしてリベラリストたちは、共和制を守るべく、市民の資格で義勇軍を結成した。バスク人とともに自由のために戦ったアメリカ人のボランティア。それが『誰がために鐘は鳴る』の主人公だ。
車窓から見るバスク地方のスペイン側には、丘と谷が交互に展開していた。どうやら一つの谷にひとつの村があるらしい。谷は牧草に覆われていた。牧民が羊の群を追っている。白い壁に、赤か緑の屋根の農家が散在している。映画『誰がために鐘は鳴る』の光景だった。
丘には、大きな岩がいくつもみえる。映画の主人公を演ずるゲーリー・クーパーは、恋人のバスク人女性に扮するイングリッド・バーグマンを馬に乗せて逃すべくひとり戦場にとどまり、機関銃をもって、フランコの大軍と闘った。「彼が戦死した現場はあのような岩陰だったのか」。あの小説のクライマックスを連想し、そんな感慨に浸ったのである。
「だから、飛行機より汽車の旅がいいと云っただろ」。川上君にそう説教した。でも私の汽車の旅の得意満面は、そこまでであった。
■ 無届け入国のツケ
喉が渇き、腹がへってきたのである。川上君に、ビュッフェ車両で何か求めるよう頼んだのだが、しょげて戻ってきた。
「現地通貨じゃないと売らないんですって」と彼。調子に乗って、無届けでスペインに入国した報いが来たのである。正規入国した他の乗客たちは、乗り継ぎ駅IRUNで持ち金をスペイン・ペセタに交換していたのだ。目的地マドリッドまで、まだ8時間もある。
同じ車両に、若いアメリカ人のバックパッカーが乗っているのに気がついた。ウマそうにサンドイッチをぱくついている。彼なら英語が通じる。川上君に手持ちの10ドル札を持たせ、現地通貨に替えてもらうように頼んだ。だが交渉は不成立。
「彼はスペイン・ペセタは持っていないんですって。『そんなにお困りなら、パリから持参したサンドイッチと水を少し分けてあげよう』と云っています。どうしましょうか」と。「馬鹿いうんじゃネェ。人に食べ物を恵んでもらえるかよ」と私。
武士は食わねど…。は辛い。検札に来た車掌に交渉した。英語がさっぱり通じない。「外為法違反だと云っているらしい」と川上君。「そこを何とか」と押し問答をしているうちに、彼は我々の渇きと空腹を理解したらしく、おもむろに財布を取り出し10ドル札とスペイン・ペセタを交換してくれた。「物価の安いスペインなら10ドルあれば、いろいろと食える」と皮算用したのだが、甘かった。
川上君が、有り金全部をはたいて列車の売店で仕入れてきた食料は、パン2個、水一ビン、コーヒー2杯。それだけだった。「オイ。砂糖はタダのはずだ。たくさんもらってこい」。コーヒーカップに砂糖をドロドロにぶち込んで、マドリッドまでの必要カロリーをかろうじて補ったのである。
私の無手勝流の旅のお粗末の一席。車掌に為替レートをごまかされたのだ。でもこの汽車の旅、飛行機よりは、はるかに面白かったことだけは間違いない。決して負け惜しみではない。旅の醍醐味は日常性からの離脱にある。。だから、ハプニングや、ちょっとした失敗、それは旅の意外性を満喫したことになるのでは…。
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