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著者: 歌川 令三  
記事タイトル: イスタンブールとは?(下) 欧亜の狭間の親日の国  
コラム名: 渡る世界には鬼もいる   
出版物名: 財界  
出版社名: 財界  
発行日: 1998/12/08  
※この記事は、著者と財界の許諾を得て転載したものです。
財界に無断で複製、翻案、送信、頒布するなど財界の著作権を侵害する一切の行為は禁止されています。  
  ボスポラスの深層海流
 アジアと欧州の境界線の定められているボスポラス海峡は、全長三十キロ、狭いところば七百メートしかない。海峡というより大河に見える。今回の旅のために持参した明治の文豪徳富蘆花の『土京雑記』(トルコの都のお話)には、「潮流の上層は黒海に流れ、下層はマルモラ海に流るるとい云ふは奇也」とある。
 河ではなく海峡なのだから、黒海とマルモラのどちらが上流、下流とは言い難い。だが世間では、欧州の十カ国を通過して黒海に注ぐドナウ川の水は、そのままボスポラス海峡を通り、マルモラ海経由でやがては下流の地中海に到達する??そう信じられている。確かに奇なりだ、どちらが真説か。
 この説を、イスタンブール工科大学ネオスマン・オサダ・商船学部長に確認してみたのである。「TOKUTOMIの書いたのが正しい。マルモラ海の水位は二十センチほど黒海より高い。だから海峡の表層は北上して黒海へ行く。しかし深い部分は、黒海からマルモラ海に南下している。それは塩分の濃度の差で説明できる。ドナウ川は欧州を千キロも縫って黒海に注ぐ。土砂と塩分が大量に黒海に入る。塩分を多く含んだ水は比重が高いから、深層海流となって外海に到達するのだ」とのことだ。
 自然の作った水と塩の交換。もしこれがなかったら大陸に奥深く食い込んだ黒海は、塩分が沈殿して、イスラエルの内陸湖のように死んだ海になってしまうだろう。その意味ではボスポラス海峡は、黒海に“生命”を与える水路でもある。
「そう。そのとおりなんだけどね。ここは航海の難所なんだ。船舶が列をなして狭い海路を通るだけでなく、上と下の海流の動きが逆だから、本当は海峡を熟知したトルコ人のパイロットが必要なんだ。でも多くの外国船は、予算をケチって、パイロットを雇わない。何年か前のことだが外国船が操縦の誤りで暴走し、海岸の住宅地に飛び込んだこともある。この海峡は国際航路だからね。トルコの海運当局は、イスタンプールの市内にある海なのに、通過中の船には、事故を起こさない限りは監督権限が及ばない……」。そして学部長氏の“ボヤキ節”は「もしかして、貴君の滞在中に海難事故が起こっても不思議ではない」との不気味な予言で締めくくられた。
 ところが彼の予言は的中してしまったのである。偶然と言うべきか、それともある確率で必ず起こる必然と言うべきなのか。翌日の遅い朝、宿泊先のホテルで、地元のトルコ語チャンネルのTVをつけた。画面の中で、赤サビた何やらタンカーらしきものが座礁している。警備艇らしき船も何隻かいる。空にはヘリが低空で飛んでいる。TVの海難防止の報道番組の資料映像だろうとボンヤリ眺めていたのだが、それにしてはアナウンサーの語調に緊張感がただよっている。
 やはり本物だったのである。通訳兼ガイドのアルカン君を伴ってフェリーで見物に出かけた。バクーの油田から原油を運ぶウクライナのタンカーが、舵が効かなくなり迷走し、浅瀬に乗り上げたのだという。
 狭い海の汚染を防ごうと、トルコ船が横付けになり油抜き作業の真っ最中だった。
「ロシアとウクライナの船は古くて悪い。トルコは迷惑です。日本の船は良い。日本は好きです」と彼。お世辞にしても、あまりにも単刀直入の表現なので、こちらとしてはいささか面映ゆい。考古学者であり文化人類学者でもあるアンカラ大学出の知識人の彼らしくない。だがトルコ人は、それほどロシア人が嫌いなのだと納得することにした。
 トルコは、ギリシャ、ブルガリア、イラク、イラン、アルメニア、グルジア、そして黒海を隔てて、ロシア、ウクライナ、ルーマニアと隣接している。「トルコ人は隣の国はみんな嫌いなの?」と聞いたら「ある意味でそうです。でもね、外交は別です。トルコの近隣外交の要諦は好きか嫌いかではなく、うまくやるか、やらないかです。だって相手国もトルコは好きじゃないでしょ。でも、トルコと日本の関係は別です。トルコ人はとにかく日本が好きです」と。

日露戦争とトルコ
 そういう現代トルコ人の日本人観の原点は、日露戦争である。前出の徳富蘆花がイスタンブールを訪れたのは、明治三十八年、日露の戦役の直後であった。再度、彼の『土京雑記』を引用させていただく。
「土耳其(トルコ)人の日本人に対する昨今の態度は唯一也。己が深怨ある露西亜(ロシア)に勝ちて呉れし日本、終始己をいじめいじめする西洋白晢人の鼻を折りし同じ東洋人の日本、是れ彼等の日本人観也。満足の裏には嫉妬もある可し。余の滞留中皇帝陛下は中村氏を召して、日本皇帝回教徒となられ、回教を日本の国教とせらるるとは真乎(本当か)と問われしと云ふ。此は同教の高僧某が陛下に向って、日本皇帝若しこれ此教を奉ぜられなば、此教の元首たる位置は陛下より去って日本皇帝に帰すべし、由々しき大事に候、と吹き込みたるが故なりしと云ふ」
 蘆花先生、さすがである。明治天皇がもし回教徒に改宗したら、オスマン・トルコ帝国皇帝はイスラム教の元首であるカリフの地位を日本国天皇に譲らねばならないと本気で心配したというエピソード。今にして思えば笑い話だが、とにかく当時のトルコ帝国の空気を生き生きと伝えており、ニュースセンス抜群ではないか。ちなみに「中村氏」とは、当時現地で雑貨商をやっていた日本人で、蘆花は同氏の案内でイスタンブールを見物している。
 オスマン・トルコは、イスタンブールを十五世紀に東ローマ帝国から奪い覇権を確立した。オスマン朝のスルタン(土侯)はイスラム世界の指導者であるカリフを名乗り、一時はその領土はバルカン、中欧(ウィーンの寸前まで)、北アフリカ、西アジアまで、面積は日本の四十倍にまで及んでいた。しかし露土戦争とクリミア戦争で口シアに敗れたのがケチのつき始めで帝国は衰退に向かっていた。日本がそのロシアを破ったのだから、明治時代のトルコ人が快哉を叫んだのは想像に難くない。明治時代の地政学的見地から見ると、ロシアは不凍港を求めて南下政策をとり、トルコおよび日本の海峡支配をねらっていたのだから、日本?トルコは、地球的自然が生んだ潜在的な同盟国という意識が、当時は少なくともトルコ側には存在していたとみてよい。
 ボスポラス海峡は、黒海を有するロシア帝国の地中海方面への出口だが、歴史上、たった一度だけ氷結したことがあるという。一八四三年、日露戦争の六十年前である。イスタンブールの気候は温暖で夏は涼しく、冬は五度を下ることはないが、この年はなぜか厳寒が欧州からやって来て、欧州・アジア間を歩いて渡れるほど厚い氷が張った。この話は例の商船学部長氏との茶飲み話で仕入れたものだ。
 若いガイド氏ともよくお茶を飲んだ。空気が乾燥しているせいか、イスタンブールは喉が渇く。彼からは面白い話をいくつか仕入れた。

大地震近し、日本を見習え
「トルコ語では、茶をチャイと言います。スリランカでは、テーと言います。その違いがなぜあるのか知ってますか」と彼は茶を前にして問いを仕掛けてきた。実はその答えは私は知っていた、「中国の茶の産地から、陸のシルクロードを経由して茶を導入した国はチャイと発音する。海のシルク航路を経由した国はテーという。英語はティーだよね」と私。
「では第二問」と彼、イスタンブールには百四年に一回大地震が来るという説があるが、「それはいつのことか」と。「そういう聞き方をするからには、今年に違いない」と答えたら「そのとおり」と言うのだ。トルコの一人当たりセメント消費量は六百キロで世界一と言われるほどの建設ブームが続いているが、イスタンブールの新興住宅地は安普請が多いので中層ビルはほとんど倒壊する、と彼はいう。トルコで唯一の英語の月刊総合雑誌をたまたま見つけたら、「大地震に備える日本を見習え」という記事が出ていた。
 この国は今でも、何かというと日本を引き合いに出す習慣があるらしい。トルコと日本の祖先はともにウラル・アルタイ語族であり、そのルーツは地理的にも民族学的にも近いのだ、とその雑誌は説いていた。トルコ人の日本思いの心情。多くの日本人旅行者はイスタンブールを異国情緒のただよう世界屈指の観光地程度にしか思っていないのだから、やや片思い的ではある。
 後刻、たまたま東京のパーティで会った在日トルコ共和国大使館、エンギン・ヤズジオウル・臨時代理大使夫妻と名刺交換をした。その際、トルコの日本思いの気持ちにこたえるべく、こう初対面の挨拶を切り出した。
「日本人の先輩になり代わって御礼申し上げる。もし日露戦争当時、オスマン・トルコ皇帝陛下が、ロシアの黒海艦隊のボスポラス海峡通過を拒絶していなかったら、日本はロシアに負けたかもしれない。そうしたら今日の日本はなかったでしょう」と。
 ごく軽い気持ちでそう言ったのだが、大使夫妻は相好を崩さんばかりだった。翌日、私たち夫妻に、トルコ・日本修好記念パーティの招待状が速達で舞い込んだのであった。
 



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