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著者: 曽野 綾子  
記事タイトル: 継続と惰性  
コラム名: 私日記 第15回  
出版物名: VOICE  
出版社名: PHP研究社  
発行日: 2001/03  
※この記事は、著者とPHP研究所の許諾を得て転載したものです。
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  二〇〇〇年十一月二十七日
 昨夜からフジモリ前ペルー大統領が、週明けになさると言っておられた記者会見の時間と場所が一向に決まらない。マスコミはいつやるのか、という圧迫をかけている。私には直接は関係ないことなのだが、フジモリ氏が私の家の離れに来られた以上、日本財団とフジモリ氏の関係だけははっきりさせるために、私は記者会見をする予定である。
 その会見は、当然の順序として、前大統領の記者会見の後にひっそりとすべきだと私は思うのだが、前大統領の会見がいつどこで行われるのか少しもはっきりしないので、もう決めないことには時間切れになりそうになっている。私は雑用を果たしに午後早々に財団に行かねばならないので、その間に十階の会議室を借りて記者さんたちに会うことにし、「午後三時からします」とプレス・リリースを流してもらった。そのうちにやっと場所が決まった様子。しかも十二時前後頃からと伝わって来たのでほっとする。うちが午後三時でタイミングはまことにいいことになる。すべて偶然の結果。
 ペルーとの最近の助成事業は一九九七年度に、小学校建設プロジェクトに四億五千万円。その分の十五校の建設計画はすべて完了した。大変な田舎に建設されたものが多い。働きながら学べる寄宿舎つきの学校もある。もう一つの助成は、辺境の主にインディオの人たちのための家族計画の整備。こちらは約二億五千万円。夫婦の間に既に何人かの子供があり、夫婦の合意がある場合にのみ、女性か男性かのどちらかに不妊手術を施すためのものである。この計画ができたため、小さな小屋がけの雑貨屋が一軒あるだけという感じの村で、一番ちゃんとした建物が保健所という結果を生んだ。私自身二度その実状を見に行ったが、ヘリでなければ到達できないような奥地の村を、一日に四カ所訪ねた時には、暑さでへばりそうになった。
 すでにこの件に関するレポートはインターネットのホームページに入っているが、ペルー政府の出したスペイン語の報告書もほしいという人がいたので、早速全部入れることにして、そちらを見てもらうことにした。出席記者は六十数人。
 五時半、東京文化会館着。ベルリン・フィルの『トリスタンとイゾルデ』を聴く。この曲について語ろうとすると、いつも幾つかの記憶をなまなましく思い出す。私は連載の時、毎月、まずこの曲を聴いてから書き出した。するとすんなりと連載の世界に入れた。この曲を聴くと時々涙ぐむ。しかし今日のように、神経が少し疲れている日には、癒しの効用は一際大きい。
 
十一月二十八日
 九時半、日本財団で執行理事会。その後インタビュー三つ。四時からダイヤモンドホテルで国土審議会。扇大臣の正確で歯切れのいい日本語にうっとりする。
 急いで家に帰って、今日は海外邦人宣教者活動援助後援会の会合の日。ペルーから、マヌエル・加藤神父も加わられた。
 
十一月三十日
 十時、日本財団で新しく採用する職員の面接試験。十一時、理事会。
 午後一時半から国立公衆衛生院で講演。この建物は、私が子供の時「伝染病研究所」として知られていた。私の学校の聖心女子学院のすぐ隣みたいな場所で、その傍を背中のランドセルを揺らしながら通っていたのである。
 今日は箱根のホテル・小涌園でもう一つの講演会。開催までの間にお風呂に入れてもらう。今年は何十年ぶりに年末に温泉に行ける。早く来い来いお正月、という感じだ。
 
十二月一日
 昼過ぎから日本財団で来客六組。
 最後は東京新聞の対談で、パラリンピックで金メダルを取られた成田真由美さん。平凡な驚きだが、手足が四本動いている健常者だって、脚が動かない成田さんに叶わない人がほとんどなのだ。しかし、いろいろな病気をされて、苦労を乗り越えて栄光を手にされたと知っていっそう感動する。金メダルをちょっと持たせて頂いた。ほんとうにずっしりと重い。
 
十二月三日
 夕方、石原慎太郎東京都知事、うちへ見えていっしょに夕食。フジモリ氏と昔から「お知り合い」だった。考えてみれば、私も石原さんとは昔からの「お知り合い」だったのだ。二人ともまだ二十代の作家の時が初対面である。裕次郎さんより美男だったような気がする。もっとも私は生来のド近眼で誰でも美男に見える癖があった。美男子とは近づかないのが無難なのである。
 
十二月五日
 九時半、日本財団で執行理事会。いよいよ予算の季節。
 十時三十分、ニカラグアの教育大臣と駐日大使。十一時、国際部、案件説明。
 十二時、南ア、ヨハネスブルグからフランシスコ会の根本昭雄神父来訪。南アの悲惨な話を聞く。四千万の人口に対してエイズ患者が四百十万人の由。両親をエイズで失った孤児がたくさんいて、その子たちのまたほとんどがエイズにかかっている。
 神父は、財団か、私が個人的に働いている海外邦人宣教者活動援助後援会のどちらかがエイズ対策に経済的支援をしてくれるのを望んでいるように見える。
「神父さま、全部を救うわけには行かないのですから、差し当たりどこから何をしようと思っていらっしゃるのか、的を絞ってください」
 と言った。
 神父は子供たちがどんどん死んで行くので、いつも葬式用の写真を撮っているという。もし神父が、せめてもう少し多くの子供たちを収容して、最後まで誰かが抱いていて死なせることを望むなら、施設の建物を建てるということも、海外邦人宣教者活動援助後援会にはできるかもしれない。これはほんとうに秘密の感覚なのだが、私はこういういい事業を日本財団に渡さず、私たちの組織でやりたいと思うことが多い。これも一種の利己主義。
 この根本神父に私は昔、瀬田のフランシスコ会でお会いしているのだそうだ。その時、私は神父に、「神父さまはアフリカで殉教してください」と言ったのだという。私は何も覚えていないのだが、いかにも私の言いそうなことだ。「多分、神父さまはアフリカで殉教してください。私は日本で温泉に行きますから、と申しあげたのでしょう?」とたずねたら笑っていらしたところを見ると、確かにそうに違いない。
 午後三時からTBSで、中村尚登さんとラジオの録音。南米に出かけた時の体験を語る。
 終わって三戸浜へ行った。
 
十二月十日
 隣家の住人、フジモリ氏について最近ようやくわかって来たこと。
 第一は全く前向きの方。私だったらすぐこりごりと思うようなことも、決してめげない見事さを持つ。
 第二に、ペルーに帰らなかった最大の理由は簡単。帰れば殺される可能性が強いと、はっきり言われている。
「私は侍と言われていますが、死んだ侍はもう侍ではないでしょう」
 とこれは日本語。侍についての考え方はいろいろあるが、この方は当然のことながらペルー人の解釈である。
 第三に、ペルーの時と同じ、決して先の行動を明示なさらない。これはテロリストたちと闘って来られた長年の戦術の結果、習慣となられたものであろう。SPが初めは私に時々小声で聞いていた。
「大統領は帰られ(行かれ)ますかね」
私には全くわからない。そのうちにSPの台詞が穏やかに変わって来た。
「これから出るとおっしゃってますから、もしかするとお出にならないでしょうね」
 私は思わず笑い出す。
「そうですね。お互いに先のことは、疲れるといけませんから、考えないようにしましょう」
 フジモリ氏のお食事の時間は、うちの家族のと三時間くらいずつずれている。生活は別になさっていただけばいいのだが、初め私はせめて御飯を炊いておくとか、シチューをお鍋に作っておくとかしたい、と思っていた。しかし約二十日経って諦めた。とても予定が立たないのだ。お弁当の買い方も、どこかへ食べに行かれることにも馴れられたようだから、もうその点も配慮するのはやめよう。
 
十二月十一日
 十一時、予算の大枠説明。
 一時、執行理事会。
 二時、賞与支給の前の挨拶。
 二時半、毎日新聞学芸部のインタビュー。私の近著『陸影を見ず』について。
 六時半から、『陸影を見ず』が完成するまでにお世話になった文藝春秋のお招きで仕事が無事に済んだことの感謝の会。月三十枚ずつ、十五ヵ月かかった連載だった。半分勤めをしながら、この作品と『狂王ヘロデ』の二作を完成できた健康を感謝した。
 
十二月十三日
 十一時、日本財団で評議員会。後雑用。
 
十二月十四日
 十一時、日本財団で理事会。
 午後、新潮社、光文社の担当の方たちが久しぶりに来訪。
 四時から教育改革国民会議・企画委員会。
 
十二月十七日
 国立競技場で、神宮外苑ロードレース。日本財団の助成金は千七百五十万円である。
 これは障害者と健常者がいっしょに走るレースで、今年の参加者は三千八百人。総額二千八百万円でできる。一九九六年にスタートした時は、二千人ちょっとだったのだが、年々参加者が増えている。知的障害者の部もある。シドニー・パラリンビックの陸上女子百メートルの金メダリストの荒井のり子さん、瀬古利彦氏、ヱスビー食品陸上競技部顧問・佐々木七恵さんもゲスト・ランナーで走ってくださった。優しい人たち。
 その上今年は、日本体育大学の野村ゼミの学生八人(つまり健常者)が、車椅子で競技に参加してくれた。こういう友情は自然でいかにも青年らしい。
 初めて、スタートの合図をさせられた時の緊張を思い出した。今年は五回目だから少し心理的な余裕が出て、ピストルの引き金を早く引いてしまうのではないか、ということをあまり恐れなくなった。
 
十二月十八日
 風邪気味。今はやりのエチナケアという薬草の成分入りの風邪薬を飲む。
 
十二月十九日
 十時、執行理事会。
 十一時、国土庁水資源部。
 四時、定例記者会見。
 七時、久しぶりに東フィルハーモニー交響楽団を聴く。
 
十二月二十日
 北西太平洋地域海上警備機関・長官級会合のオープニング・セッションが東京で開かれている。アメリカ、ロシア、韓国などの保安庁長官が来ておられる。各国の国歌演奏の後、私も短いご挨拶。日本財団が海賊対策の民間の情報センターの役目を果たすようになっているためだが、日本は海賊に関しては官民一致して当たっています、と関係諸国に示すことは大切だろう。
 終わってすぐ財団に戻り、雑用ひとしきり。
 夜、線路向こうの同窓の友人の家で楽しい会食。
 
十二月二十三日
 夕方、杉本苑子、津村節子、岩橋邦枝のお三方、我が家に集まった。それから自由が丘のレストランへ行ったのだが、でがけに杉本さん、うちの門の前に止まっている機動隊の車の中がどうなっているのか覗きたそう。作家というものは誰もが好奇心の塊。
 
十二月二十四日
 クリスマスのミサは夕方八時ということにして、お隣の住人のフジモリ氏にもお知らせしておいた。しかし例によって行くとも行かないともおっしゃらないから、三浦朱門と二人で七時四十分には家を出る予定で仕度をしていたら、七時二十分になってやはりいらっしゃるとのこと。
 次男のケンジさんとSPと私たち夫婦と夜道を歩く。あったかくていいクリスマス。
 教会には今度のフジモリ氏のことで顔見知りになった共同通信の記者氏が来ていた。共同通信のためにもなり、かつ祈っている人の邪魔にもならない位置とチャンスを教えてあげることにする。祭壇の前で聖体拝領をして戻って来られる時なら、お顔がこちら向きになるでしょう、というわけだ。しかしフジモリ氏は聖体拝領はなさらなかった。共同通信が、なぜ聖体を受けなかったのですか、と聞いたら、立ち上がって出て行くと、また気がつく人がいて邪魔になるから、と説明されたらしいが、三浦が「奥さまのことですか」と聞くと「そうです」と答えられた由。
 南米のカトリック教徒は実に信仰に忠実なのである。どんなに自分に非がなくても、離婚しているというだけで、一生聖体を受けない人は珍しくない。私がブラジルで会ったのは、ハンセン病が出て、夫に棄てられた人だった。棄てて別の女と逃げたのは夫の方である。今彼女は別の男性と会い、事実上の結婚生活をしている。子供ができないので男の子の養子をえて円満な家族を作っている。しかしこの夫婦も一生聖体拝領をしないという。前の教会の結婚が消滅していないので、今の夫とも結婚式をあげられない。
 帰ったら、見知らぬ日本の女性が、すばらしいペルー料理を届けてくださったということで、ペルーからお着きの知人たちと隣家でお食事をなさると嬉しそう。私たちも招かれたが、例によって食事時間がずれていて、もうお腹に入らない。
 風邪もなおらず、はやばやと寝る。
 
十二月二十六日
 十時、日本財団で執行理事会。
 十一時、面接試験。
 午後、上智大学のキャンパスで雑誌の対談。
 夜、インドの不可触民の調査をしたグループが財団に集まった。インドでも誰一人としてお腹を壊さなかったのだから大したもの。会費二千円ずつを頂いた。
 もっと長くいたかったのだが、友人の石倉瑩子さんの母上が亡くなられたので、お通夜に廻った。お棺の中の母上の顔はすばらしい美人。「小母さまって、こんなに美人だったっけ」と言って友達と泣き笑い。
 
十二月二十七日
 正午、世界水フォーラム運営委員会発起人会。二〇〇三年に日本で行われる大切な会議である。
 私はダムの建設現場を長い年月見て、用地問題などの難しさも少しは聞いて来たけれど、ドナウ流域のようにたくさんの国が同じ河を利用することの難しさは、どんなだろう。サハラ以南の地域的紛争は、すべて水不足がどこかで関係している。貧困の根源は水でもあるのだから。
 平町の石倉家に戻り、葬儀ミサに与り、桐谷火葬場にもお供する。
 
十二月二十八日
 仕事納め。十一時からお払いの神事。
 その後皆に挨拶して、それから自宅に帰る。
 風邪あまりよくない。夜十時東京駅。「サンライズ出雲号」の寝台車で出雲へ向かう。中は数寄屋風で、シャワーもあるというが、風邪が怖くて入らなかった。
 夜、咳と空気の乾きで余りよく眠れなかった。しかしこの久しぶりの解放感はたとえようもない。何度も目覚めて、車窓に星を見ていた。
 最初の日が玉造温泉、次の日が皆生温泉と決めたのも三浦朱門。「どうして山陰に決めたの?」と聞いたら「地震で少し客足が落ちたというから、そういうところへ行くことにした」と言ったのである。
 出雲大社、真名井神社、神魂神社にも寄る。朱門はこういう場所に来ると、実に嬉しそう。学者ではないから、あらゆる憶測、推測、可能性を喋って恐れない。
 出雲阿国の墓にも参る。演劇関係者は皆お参りする、とタクシーの運転手さんが言ったからである。朱門は「これで国立劇場にお客がたくさん入るだろう」と笑っている。国立劇場の運営の責任者の一人でもあるのでやはりお客の入りが気になるのである。水仙の花がほころびかけていた。
 昼御飯には運転手さんご推薦の町のそば屋。私は麺類がそれほど好きではないのだが、それでも山陰のおそばのおいしさに圧倒された。玉造温泉の宿には、最初から早く入る予定だったが、運転手さんは、これっぽっちしか観光をしないのか、と言う。
「ええ、観光が目当てではなくて、昼寝に来たんです」と答えておいた。
 大浴場の湯気は喉にいいような気がする。夜、大変上手なマッサージの方に治療してもらった。喉のつぼが固くなっている。
 
十二月三十日
 松江の武家屋敷とお城。
 武家屋敷のうちの一軒を、ゆっくりと見学した。ことに感心したのは台所で、大瓶の口が、半分戸外半分屋内に入るように地べたに埋められている。水汲みの人が外からざあっとこの瓶に水を補充すると、中の人はわざわざ戸外にでなくても汲めるような仕組み。なかなかよく考えられているのだが、考案した人は、かなりの怠け者だったに違いない。
 松江の城は不思議なお城。外壁に可燃性の木が張ってある。
 今日も昼御飯はおそば。そして再び早々と皆生温泉に入る。風邪はあまりよくないが、温泉には入った。
 
十二月三十一日
 午前中の列車で岡山へ。新幹線に乗り換えて大阪に出る。二十世紀の最後の日を、息子たち一家と食事をして過ごすため。
 髪が汚れたので、ホテルで探してもらってまず近くの美容院へ行った。お兄さんの店主は「日本髪も結います」という。「いいですね。芸術は余力がないとだめなんです」などと言ってのんびりしたいい大晦日である。
 息子の奥さんの暁子さんと孫の太一より先に、息子の太郎が難民風のリュックを背負って現れた。中国の上海にいて、先刻関西空港に着港、その足でここへ来たというが、果たして風体が悪いから「フロントから電話されちゃったのよ」と笑っている。
 一家でホテルの中国料理。外へ出ると寒いし、どこもいっぱいだから、と配慮して席を取っておいてくれたおかげで、大阪でも「お早いお着き」の後ゆっくり休めた。
 太郎一家が帰ってから、私はすぐ寝てしまったが、途中でふと目を覚ますと、煩悩の百八つの除夜の鐘の音が断続して聞こえていた。既に二十一世紀。何の変化もなし。揺るぎなき継続と惰性。
 



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