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著者: 曽野 綾子  
記事タイトル: 祈るとき?非常時だけでは神も白ける  
コラム名: 自分の顔相手の顔 13  
出版物名: 大阪新聞  
出版社名: 大阪新聞社  
発行日: 1996/12/23  
※この記事は、著者と大阪新聞社の許諾を得て転載したものです。
大阪新聞社に無断で複製、翻案、送信、頒布するなど大阪新聞社の著作権を侵害する一切の行為は禁止されています。  
   私の身の廻りにも、無神論者はたくさんいて、私は一応カトリックなのだが、無神論の友達に会うとほっとすることがある。この心理はなかなか微妙で、第一の理由は、私の信仰がいい加減だからだろうが、信仰とか神とかについて相手が全面否定している以上、その気分を悪くしないために、そのことには一切触れなければいいのだから実に簡単だ、という気持ちになるからである。
 しかし同時に神も仏もありません、という人は強いなあ、とも思う。
 人間の世界には、常に予測しがたいことが起きる。土砂崩れが起きたり、冬山が荒れたり、鉄道の追突事故が起きたり、飛行機が行方不明になったり、テロ事件の人質になったり、癌だと宣告されたりする。
 人間はこういう場合二つの立場に立たされる。自分が事件の当人で、まだ生き残る可能性がある場合。自分が事件の当事者の家族や知人で、事件をただ見守るしかない立場にいる場合。どちらも、私のすることはたった一つ、祈ることだけなのである。
 そういう時、無神論者はどうするのだろう。そういう時にも断じて祈るなどということをしない人がいるのだろう、と私は推測することができる。しかしそういう理性的な人を、私はどうしても好きになれない。
 息子が山に登って遭難し、生死がわからないという時、母親はあらゆることを念じる。生きて帰ってきたら、近くの子供の施設に百万円を寄付します。生きて帰ってきてくれたら、私は一生お菓子を食べません、お茶も飲みません、などと願かけをする。そんなことだけではない。自分の命を縮めても、その分であの子を生還させてやってくださいと祈る。
 無神論で通して来て、突然、そういう立場に立たされた時に祈り出す、というのは、どうもあまりいい感じではない。息子の就職が問題になると、慌てて数年間ごぶさたをし続けていた知人の社長さんの家にウイスキーを持って挨拶に行くようなものだ。頼まれた方だって白けた気分になるだろう。その可能性があるなら、普段からずっと誠実を尽くしておくことだ。しかも祈る相手は誰かというと、多分人間を超えた存在にであろう。無神論者の立場もそこで危うくなって来る。
 私は狡いやり方をして来た。
 神はいるという証拠もないのだが、いないという証拠もない。とすればいるという方に賭けておく方が無難だとしたのである。しかし現実には、神の存在を感じたという体験を持つ人は多い。私の知人には神に会ったという記憶を持つ人さえいる。しかしそういう人ほど、自然で、狂信的ではない。
 自分の体験を決して人に押しつけないし、淡々とその時神と約束したことを果して生きている。
 いざという時、あくまで無神論を通して決して祈ったりしないか、それとも不安な時には救いを祈るか、非常時ではなく、平常時から身の処し方は決めておくべきだろう。
 



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