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先日、外国の雑誌で、ショーン・コネリーが、エリザベス女王から「騎士(ナイト)」に叙せられている写真を見た。 私たちの年代では、『007』のジェームス・ボンド役といえば、ショーン・コネリーと思っている。若い時のショーン・コネリーは細身で、美男子とは言えないかもしれないが、ほんとうにすてきな二枚目だった。他の人がジェームス・ボンド役をやっても、ショーン・コネリーの印象があまり強いので、どうもニセモノみたいな気がしてならなかったものである。 ショーン・コネリーはその後堂々と年を取った。若さに恋々とすることもなく、別人のように年を取った。私はかつての二枚目のそのような生き方に心から尊敬を覚える。 ショーン・コネリーは幾つになってもショーン・コネリーなのである。三十歳だからショーン・コネリーで、六十になったらショーン・コネリーではなくなる、という方が、いくら二枚目俳優でも不気味である。 老人風の容貌になっても、スコットランドの正装であるタータン・チェックのキルトを身につけ、エリザベス女王の前に跪いて、儀式としてその右肩に剣を置かれている姿は、やはりそれだけで映画の舞台面である。 六十になっても、八十になっても、その年の人らしい人間のおもしろさが出せなければ、その人はただ古びて行っているだけということになる。中年になり次いで老年になる技術というものは、考えてみるとなかなか味のあるものらしい。 今年もまた九月の老人の日が近づいているが、たまたま読んでいた古代ローマの思想家エピクテトスの『要録』の中には私たち老人たちも心すべきようなことがちゃんと書かれていておかしくなった。 年を取ると、健康を維持することに、たくさんの時間を取るようになる。朝から健康にいい、と言われていることしかしていない人までいる。 エピクテトスはそうした現代人の出現を二千年も前から予測していたかのようだ。彼は次のように書いている。 「肉体にかんする事柄で時間を費やすこと、たとえば、長時間運動をしたり、長時間食ったり、長時間飲んだり、長時間排便したり、長時間交接したりすることは、知恵のないしるしだ。ひとはこれらのことを片手間になさねばならぬ。きみの全注意は心に向けたまえ」 自分がこのどれかに該当しているからと言って、別に怒ることも気に病むこともない。長時間かかる人に理解を示すのも当然だ。しかしこうした長時間の行為が、手段ではなく、目的とされることが、いささかこっけいであることも本当だ。これらのことは片手間にすべきことだという実感はある。 老人になると、いや老人でなく中年後期でも、健康保持を最大の仕事にしている人は昨今どこにでもいる。健康は人迷惑でないという点ですばらしいものだ。しかしできれば片手間でそれができたらもっと粋なのである。
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