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著者: 歌川 令三  
記事タイトル: カムチャッカ旅行記(1) “魚の燻製”という名の半島  
コラム名: 渡る世界には鬼もいる   
出版物名: 財界  
出版社名: 財界  
発行日: 1999/10/12  
※この記事は、著者と財界の許諾を得て転載したものです。
財界に無断で複製、翻案、送信、頒布するなど財界の著作権を侵害する一切の行為は禁止されています。  
  北太平洋・四時間の時差
「カムチャッカに行かないか」と声をかけてくれたのは、日ロ貿易協会の会長、佐藤哲雄氏である。佐藤氏はモスクワ大学卒の空手の師範であり、若いときからロシアの政・官・経済界に築いた弟子人脈をもつ、ウルトラ・ロシア通である。「カムチャッカ」。地名は小学校の地理の授業で記憶にはあった。世界有数の秘境であり、ソ連原潜の基地であること。その程度の予備知識しかない。「だからお勧めします」と佐藤氏。北海道の北の島サハリン(旧樺太)に仕事で立ち寄る用件もあり、夏休みを利用してともかく出かけてみた。
「いったい、どうやって行くのか」。この地へのアクセスの順路さえ見当がつかない。一九九九年、七月の末、出発地はなんと名古屋であった。
 小牧空港。沿海州ハバロフスク航空の旅客機が、夏場に五回、飛来するのだという。その当日、JALが航空券や荷物のチェックインの代行をやっていた。だが出発の予定時刻が近づいても、それらしき機影はいっこうに現れない。「やっぱりロシアはダメか」。あきらめ顔の人もボチボチ出始めたころ、ツポレフ154がハバロフスクから、カラのままやってきた。予定に遅れること一時間半、百六十四人乗りのロシア製ジェット機は、七割方埋まった。
 名古屋から、カムチャツカの州都ペトロパブロフスクまで二千六百キロ。太平洋を北東に飛ぶ。乗客は日本人観光客とロシア人が半々であった。半袖の盛夏の服装が日本人、ややくたびれてはいるが背広の上衣着用がロシア人であった。一応「NO SMOKING」なのだが、後半分はたばこは自由であった。三三五五後部座席のあちこちでロシア人たちが、空港売店で求めた日本製カマボコと魚の燻製で、ウオッカの酒盛りを始める。
「カムチャッカ」。その地名の由来は、「原住民のコリヤーク語で、魚の燻製という意味です」と佐藤氏。「コリヤーク人は、トナカイの橇を操る術に長けており、コリヤークとは原住民語でトナカイのことです」。これも佐藤氏の解説だ。酒盛りのロシア人男性のグループは、日本に魚を売り、帰りに中古車を仕入れて帰るカムチャッカの新興成り金の一団であった。ペトロパブロフスクのイエリツォボ空港に着いたのは、深夜の十二時。白夜ほどではないが、富土山そっくりの雪山のシルエットが数個、はっきりと見える。四時間の時差があるから、正味、四時間半の飛行時間だった。
 翌朝は小雨。気温は十度。名古屋の三十四度の酷暑がウソのようであり、機中で見たロシア人の背広姿も納得がいく。ホテルの窓から見た街を歩く現地のロシア人たちは、オーバーコート姿であった。ここはロシア共和国カムチャッカ州、北緯五一度六〇分から六四度にいたる北の大陸から突き出た大半島であり、面積は日本の本州よりも大きい。州都ペトロパブロフスクは、北緯五三度。太平洋岸の不凍の港湾都市である。雲の切れめから隣り合わせに“富士山”が二つも見える。ここの“富士”は“不二山”ではなく、半島には富士山と同じ、すり鉢をふせた型の火山が十数個もある。一番高いのは四千七百メートがの活火山だ。
 
“富士山”が十数個もあった”
 司馬遼太郎の『ロシアについて』(文春文庫)には、こんな叙述がある。「ロシアの東方は、欧露からみると暗く、寒く、しかも果てしない……。やがて探検家たちが、東端のカムチャッカ半島を発見、ついでベーリング海の青い波から東に出口があることを知った。カムチャッカ半島は、悪魔の大群が雪原で白いテントを張っているような景色だ、とロシアの船乗りをおびえさせた……」と。
 司馬氏がこの稿を文藝春秋に連載したころは米ソ冷戦の真最中であり、対米冷戦の極東の最前線軍事基地でもあったカムチャッカ半島は、司馬氏のような外国人はもとより一般のロシア人も立入禁止地区だった(外国人の旅行者を受け入れたのは九二年以降である)。だから「悪魔の大群の白いテント」というロシア人探検家の手記の引用が、コニーデ型活火山が十数個もある情景をさしているかどうかは、おそらく執筆当時、定かではなかったのではないか。それはともかく、土産物屋で求めた絵葉書のなかに、孤高のはずの富士が、平地に幾つも並び、背比べしている景色のカラー写真があった。そのような景色があるだけでも、カムチャッカはなるほど世界の秘境であった。
「このなかにだれか雨男がいる。晴れた山が見たかったのに」。同行の曾野綾子さんにうらまれた。それは彼女の言う日本人雨男、つまり私のせいではなく、極北のカムチャッカの地理的位置がそうさせるのである。一行のツアー結成の世話をしてくれたNGO「カムチャッカ研究会」の橋井宣二・専務理事は十数回もこの半島を訪れており、日本人としては旅行解禁後のカムチャッカの最高権威者だ。その彼が言う。「たまたま来た日が雨ということはしばしばあるんです。半島の近くにコマンド島というアラスカとの海峡を発見したベーリングゆかりの地がある。なにしろ辺境でしょ。ヘリで行くんですが、雲が三百メート以下に低くたれこめると飛べません。三年間ずっとトライしてやっと行けたんです」と。
 カムチャッカ付近は、今も、昔も低気圧の終着点だ。フィリピン沖で発生した台風は日本列島に沿って北上、北海道付近で偏西風に押されて右に急カーブ、千島列島沿いに東に向かいカムチャッカ沖で消滅する。いわば台風の墓場である。
 雨にたたられた初日、野外の予定を変更して博物館に出かける。州政府が気をつかって特別に開館してくれただけでなく、英語堪能の女性学芸員を用意してくれた(残念ながら日本語を話す館員はいない)。カムチャッカ史など考えるきっかけもなかったのだが、半島はいかなる生い立ちなのか、そして日本と、いかなるかかわり合いがあったのかがわかったのである。
 
「エンド」国の「デンベー」
 中年の学芸員女史によると、そもそもこの半島にロシア人が足を踏み入れたのは一六九七年、アトラソフという親分にひきいられたわずか六十人のコサック軍団であった。鉄砲と四門の大砲で六年がかりで、イテルメン、コリヤークという原住民、推定二万人を征服、毛皮税を取り立てた。帝政ロシアのお目当ては、黒貂や海猟の毛皮であり、十八世紀には国策開発会社「露米会社」がロシア皇帝の勅許で設立された。
「ロシア人が日本人を初めてみたのは、カムチャッカだ」と彼女がいう。ということは、日本人がロシア人なるものとの出会いもこの地になる。その人の名は「デンベー」で、漂流民だというのだ。「原住民の捕虜となっていたエンド国のデンベーを、一六六九年コサックの長アトラソフが発見した」と彼女の説明はつづく。
 はて? 「エンド国のデンベー」。この謎は、橋井さんにもらったカムチャッカ研の百数十ページの論集(日本語によるカムチャッカ紹介本としては唯一の本で良書)を読んだことによって、すぐ解けた。デンベーは、大阪の質屋の若旦那伝兵衛で、インドシナに商品を運ぼうとして出帆したものの、台風で漂流、自然の力で低気圧の墓場であるこの地に六カ月後に流れ着いた。仲間は殺され彼一人が残った。ホリの深い顔と黒髪をみてアトラソフはギリシャ人かと思ったが、エンド(江戸)という国の人間だった??と皇帝ピョートルヘの報告書に記録が残っている。ピョートル大帝は伝兵衛をサンクト・ペテルブルクに呼び、イルクーツクでロシア人に日本語を教えるよう命じたのである。
 ロシアの日本への関心は、まさにこの時点から始まった。アトラソフのカムチャッカ征服後、十八世紀には半島の南側には数個の島が連なり、その果てには「蝦夷島」という大きな島(北海道)があり日本人が住んでいることを確実につかんだのである。
 それから百年間、帝政時代のロシアはどうしても日本が必要であった。シベリアからカムチャッカにいたるまで、点々と兵站を築き、役人を置き毛皮をせっせとヨーロッパロシアに集積した。だがウラル山脈の西から千数百キロも開拓者の食糧を運ぶのが難点であった。もし、日本から手に入れられれば……。ロシア人はそう思ったのである。だから、米国が捕鯨船の水と食糧補給のため日本が必要であったのと同じ理由で、幕府に開国を執拗に迫ったのである。
 日本開国の使節、プチャーチン提督は、カムチャッカから軍艦でやってきた。当時をしのばせる帝政ロシア時代の建築物が、ペトロパブロフスク市にたった一個所残っている。「それが、元カムチャッカ庁であったこの博物館です。では日本のお客さん。ダスビダニヤ(サヨナラ)」。玄関まで見送ってくれた学芸員女史が、そう教えてくれた。
 



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