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著者: 曽野 綾子  
記事タイトル: 金の招きふくろう  
コラム名: 昼寝するお化け 第140回  
出版物名: 週刊ポスト  
出版社名: 小学館  
発行日: 1997/10/10  
※この記事は、著者と小学館の許諾を得て転載したものです。
小学館に無断で複製、翻案、送信、頒布するなど小学館の著作権を侵害する一切の行為は禁止されています。  
   私がハンセン病の勉強をしたのは、今から二十五年くらい前のことである。私は東京でごく初歩的な知識を教えられてから、インドのアグラにあったハンセン病院で数週間を過ごした。そこで私は、日本でも数少ないこの病気の専門家である中井榮一先生(現・長島愛生園副院長)に会った。私は毎日、先生の診察の脇に立って、患者さんたちを見た。当時から日本ではごく少なくなっていたハンセン病の患者さんを三千人も見たのだから、病気の症例を全く見たこともない皮膚科のドクターには申しわけないほどの勉強をさせて頂いたことになる。
 日本財団の前会長の笹川良一氏は、ハンセン病撲滅のために長い間力を尽くして来た。今、ほとんど全世界の患者さんたちに配られている薬は、カレンダー形式になっていて、患者さんが飲み忘れないように優しい配慮がなされているが、その薬にはスポンサーとしてWHOと日本財団の両方の名前が併記されている。笹川前会長がハンセン病の患者をなくそうという悲願の元にWHOに協力を申し入れたのは、一九七四年だというがそれ以来財団は八千万ドルをWHOに拠出して来たのである。これは直接の支出で、他にもハンセン病のために率先して働いて来た笹川記念保健協力財団からも総額六十億円が支出されているというから、財団は結果的には、世界のハンセン病撲滅のためのもっとも大きな民間の力として働いて来た。
 そして今度再び、中井先生もいっしょに、私はミャンマーのハンセン病の実情を見て歩くことになった。
 ハンセン病は紀元二千年までに終息宣言が出せるかもしれない気配である。現在は発病しても、すぐ治療を開始すれば、ほとんど何一つ問題なく治ってしまう。難病ですらない。しかし問題は、時代的にまだ薬のわからなかった昔に発病して、菌は既になくなっているのに、手足の変形が残ってしまい、形成手術が必要になっているようなケースである。
 ミャンマーに限ったことではないのだが、田舎に貧しく暮らしているような人たちは、体がどうもおかしいと思っても、仕事を休んですぐにお医者に掛かる金銭的、心理的、距離的な余裕がない。
 今度のミャンマー旅行では、イェイナンタールのマダヤ地区にある国立のハンセン病院も訪ねた。マダヤはマンダレーから五十キロ余り離れた平野の中にある。
 この施設の前身は一八九一年にワイヘンガー神父によって建てられたものだったが、一九六六年に政府によって経営されるようになり、一九九〇年に建物全体がこの地に移ってきたのである。土地は三百二十七エーカー。現在の患者の総数は約百九十人である。
 日本の患者と違って、ほとんどの入院患者には私物というものはほとんど一つもない。着替えさえ持っていないように見える人ばかりである。
 どこの国でも院長回診というのは、患者にとっていささかの緊張を強いるものである。老人も子供も僧侶の患者も、ベッドの上に同じような姿勢で私たちを迎えてくれる。後遺症が深刻な人たちばかりである。瞼が完全に閉まらない人は、夜寝る時にマスクをして湿度を保つようにしないと、角膜が乾いてやがて失明に至る。足の神経が麻痺して爪先がだらりと下がると、そこが歩く度に地面に擦れることになるから、いつのまにか外傷となって、やがて足の指が欠損する。既に足を切断している人はかなり多い。
 斑紋が現れた部分は汗をかかないので、体温の上昇に苦しむ人もいる。指が曲がったままになってしまって、手術で伸びるようにしなければならない人も多い。
 婦人病棟で会った二人の若い患者の顔が今でも私の眼に残っている。一人はまだ十代の少女に見えたが、もう二十五歳になっているという。中国人で、ミャンマーとの国境に近い町に住んでいた。国境沿いの町の人々は、普通出入り自由なのだという。

 病気の子供を捨てられる親
 彼女は病気を理由に、父母の家から追い出されたのであった。もしほんとうだとしたら、それは親たちの無知の結果である。この若い女性は少し眉が薄く、指がやや曲がっているだけで、他に目立つところはもうどこにもない。もちろん菌も出ていない。自分のことが語られている間に、彼女は汗のような涙を流した。親は何か他のことで、この子を憎む理由があったのかもしれない。しかし病気の子供を捨てられる親というものが、私には理解できない。
 その隣には、更にあどけない表情の少女がいた。耳に小さな金の耳環が揺れている。まだ八歳くらいに見えたが、聞いて見ると十二歳であった。
 彼女は母と結婚した義父に、病気を理由に追い出されたのであった。母という人は、そんな残酷な男でもほしかったのだろうか。いや、現実的に考えれば、男との結婚だけが、母と他の兄弟が食べて行く方途だったのかもしれない。もしそうなら、母はこの子に、いつもいつも手紙を書いてやればいいのに、と思う。お義父さんはあんな人でも、お母さんは決してあなたのことを忘れてはいないよ。いっしょに住めないことを、済まなく済まなく思っているよ、と。
 彼女も自分のことが語られている間、たった一粒の真珠のような涙を零した。彼女の場合、右の口角がやや麻痺して下がっているが、それも表情の癖としか見えない。
 二人の娘たちは、病気は比較的簡単に治るだろうが、親に捨てられたという心の傷は治らない。
 病院の外に、政府は自活できる人たちの村を作った。現在村の人口は一千三百三十五人で、患者はそのうちの約半分の六百四十五人である。
 この村の移転が決まった時、果して地域の住民は反対した。しかし今ではここに村ができて地域が活性化し、病院のおかげで蛇に噛まれてもマラリアが起きてもすぐ治療を受けられることを喜んでいる。
 私たちは患者さんたちの村を訪ねた。活気に溢れた光景である。怠け者の家は今でも政府が建ててくれたままの小さなアンペラで壁を作った小屋だが、金持ちは立派な二階屋を建てている。擦れ違った時にドクターたちに挨拶した小柄な美女は、余所の村から患者の男性に嫁に来た人だと言う。
 村には茅葺きの雑貨屋もあった。金色のふくろうが招き猫風に吊るしてある。茶店の持主は、昔日本軍と親しかったと言い「イチ、ニ、サン、シ」と数を数えて見せた。茶店は若者の溜まり場だ。自家用車を二台持っている人もいる。村一番の金持ちは炭焼で成功した企業家である。すべて自分で稼いだ金である。そして患者たちにはそれができることが証明されたのである。
 



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