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著者: 曽野 綾子  
記事タイトル: 肩凝りの春  
コラム名: 私日記 第18回  
出版物名: VOICE  
出版社名: PHP研究所  
発行日: 2001/06  
※この記事は、著者とPHP研究所の許諾を得て転載したものです。
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  二〇〇一年三月八日

 三浦朱門と国立劇場で四世鶴屋南北作『阿国御前化粧鏡』から、通し狂言『新世紀累化粧鏡(いまようかさねけしょうのすがたみ)』を観る。三浦は国立劇場、国立能楽堂、国立文楽劇場、新国立劇場などを運営する日本芸術文化振興会の責任者なので、柄にもなく、お客の入りが気になるのである。

 国立劇場ではいつも食堂で御飯を食べた後、「ここにはちょっとした美術館並みの現代作家の名画がたくさんあるのに、みんな見てくれてるかなあ」とグチのようなことを言う。

 帰って大阪新聞・産経新聞・北国新聞・富山新聞に連載される「自分の顔、他人の顔」の連載を二日分、約六枚を書く。

 

三月九日

 午前中、『財界』二枚半。祥伝社『小説NON』に連載中の「原点を見つめて」十二枚の約半分を書く。

 午後、新高輪プリンスホテルで世田谷ロータリークラブの講演会。年に数度だけ、ロータリーなどで講演して、その講演料を、私が代表になっている海外邦人宣教者活動援助後援会に寄付して頂く。私が働いて受けたお金を寄付する方が気持ちがいいのでそうしている。

 四時から岩国育英財団の評議員会に出席。

 夜六時半から江戸川総合区民ホールで、江戸川区立小中学校PTA連合会の講演会。帰りに車の中でサンドイッチを食べながら、三戸浜の家に直行。車を下りると海風爽やか。東京を逃げて来た、としみじみ思う。

 一九四五年の今夜、東京大空襲。一晩中東京の夜空は燃えていた。明日は、三歳で死んだ姉、幽里香の命日。私はこの姉には現世で会ったことがない。私は姉の死後六年目に生れて来た。

 

三月十日

 午前中、『小説NON』の原稿書きを継続。時々庭に出る。去年私が刈り込んだ連翹は、少しも斜面に沿ってしだれず、ぴんとおっ立っている。どうしてこう情緒がないのだろう。庭師になるのも、やはり簡単には行かない。

 昼過ぎ、横須賀市の総合福祉会館ホールで横須賀市健康福祉協会の講演会。

 

三月十一日

 夕方帰京。

 夜、昔アイオワ大学で知り合った台湾のダイアン・殷さん来訪。今では『天下』という雑誌の編集長である。いろいろな質問を受ける。相変わらず政治には興味がないから聞いてもだめよ、と言えば通じる間柄だから気楽だ。

 

三月十二日

 午前十一時半、学士会館。日本弘道会の講演。終わって日本財団に行く。毎日新聞・大村孝氏。集英社・鈴木馨氏とは『狂王ヘロデ』を本にすることについて打ち合わせ。原稿を再読するのが遅れているので、心にかかっているが、数日その仕事だけに掛かり切らないと、拡げた資料が使い切れない。三月十四日から、三戸浜にこもってやりますから、と約束する。

 夜はうちで、海外邦人宣教者活動援助後援会の運営委員会。いつものメンバーの他に「幼きイエズス修道会」からチャドで働いておられるシスター・永瀬小夜子と管区長のシスター・松尾京子のお二人が、フジモリ前ペルー大統領について原稿を書かれた坪居寿美子さんを同伴して来られた。それから名古屋市の小笠原弘子さん。私たちの仕事を長く助けてくださっている方である。

 支援先の内容で、今月特筆すべきものは、南アの根本昭雄神父からの要請で、孤児のエイズ患者たちを収容している施設の霊安室建設に約二百二十万円を出したことである。孤児たちの親はエイズで死んだ。神父は子供たちはせめて健康かと期待していたが、半分以上がHIVプラスだという。神父は始終子供の写真を撮っているが、それは、あっという間に葬式を出さなければならなくなるからだ。せめて葬儀のミサの時、写真くらいなければ悲しいのである。

 

三月十三日

 十時、日本財団で執行理事会。

 十一時、ヘレンケラー財団。

 午後一時から、市ヶ谷の海上幕僚監査部で講演。

 午後四時、財団にクライン孝子さんが息子さんのヨウ君と来訪。帰宅後、大阪新聞一回分。

 

三月十四日〜十七日

 三戸浜。母屋では仕事をする場所がないので、離れの食堂に『狂王ヘロデ』の資料を拡げた。肩が凝ると、時々庭へ出る。大根を煮る。

 朝起きて、東京の家に電話をかけ、

「一人でいて、死んでやしないかと心配してるかと思ったから、生きてる証拠に電話をかけたわ」

 と言うと、朱門、

「ちっとも心配してないよ」

 久しぶりに、自分の小説の主人公に会った感じ。書き足すこともいささかあり、手を入れてよかった、と思う。

三月十八日

 午前中に、『狂王ヘロデ』の手入れついに終わる。と言っても粗忽な私のことだから、誤字脱字、つなぎの悪さ、まだいくらでも出て来るだろう。

 宇田川尚人、英美夫妻来る。これからしばらく私と交代で、ここで原稿を書く由。海の傍の土地は空気がよくていいと思う。

 夜、三崎の「魚音」でお鮨を食べて別れた。

 東京の家に帰宅後、十時からマッサージをしてもらう。ひどい肩凝り。数日間これだけ重い横文字の本を扱って眼を凝らしていれば、凝るのも当たり前。

 

三月十九日

 午前中、司法制度改革審議会。

 午後一時、リオール駐日イスラエル大使。まことに気持ちよくお話ができる方である。

 二時半から『諸君!』の対談で阿川尚之氏来訪。アメリカの法廷における陪審員の選び方について教えてもらう。大変ためになった。

 四時過ぎ、財団で講演をして下さる白石一郎先生にご挨拶してから、溜まっていた雑用を片づけ、七時から写真家の熊瀬川紀氏、早稲田大学の吉村作治教授と、帝国ホテルで食事。ツタンカーメンのDNAが土壇場で調査できなくなった経緯などを聞く。このメンバーでサハラ砂漠を縦断してから早くも十八年の年月が経った。

 

三月二十日

 午前中に『聖母の騎士』に連載中の「生活のただ中の神」十枚。来客一人。

 夕方、杉並文化フォーラムの講演会。終わって主催者側から渡部昇一先生ご夫妻、ご子息の玄一さん、基一さん、白石光隆さんとおいしい中華料理をご馳走になる。ご子息お二人がチェロとヴァイオリン奏者だなんて、何という贅沢。『Voice』の日記、二十枚を書き始める。

 

三月二十一日

 『小説宝石』に連載中の「魂の自由人」十二枚。

 夕方、フジモリ前ペルー大統領がご滞在中百余日にわたって警護をして下さった田園調布署に遅ればせのご挨拶。今回のことで、少し関係書類を読んだので、日本大使公邸人質事件をモデルに小説を書けるような気がしているが、すべて架空の人物を創るのはまた一仕事。

 

三月二十二日

 十一時頃から、日本財団で来客数人。

 午後二時から飯倉公館で外務省機能改革会議。大阪新聞二回分。

 

三月二十三日

 財団で、理事会・評議員会。

 午後三時、やっと帰って美容院へ行く。

 夕方、再び大阪新聞二回分。『財界』エッセイ二枚半を書く。

 

三月二十四日〜二十八日

 朝の飛行機で北京へ。友人と全く私的な旅行。王府飯店に入ると、太郎(息子)が赤いチョッキを着て待っていた。学生さんたちと北京に来ているので、ついでに案内してくれる、という。

 夕飯は竹園賓館に行った。清朝末期の郵政大臣だった盛宣懐の屋敷だったという。竹林の中を幾つかの別棟が廊下で繋がっている。

 万里の長城は居庸関で見る。この関門の下を元軍が確かに通ったのも一場の夢。

 明の十三陵は定陵と長陵を見た。評判の悪い王ほど、王陵は遠くに位置し、壊れ、誰も訪れる者もない。しかし静寂を与えられて悪くはない。帰りに神路と呼ばれる参道を一キロほど歩いた。

 私は円明園の廃墟が好きであった。清朝の康煕、雍正、乾隆の時代に建てられ、一九〇〇年破壊された西洋風建築の跡である。廃墟の美というものは、敗北主義のようだが人間の弱さを確実に感じさせる。

 琉璃廠では、太一(孫)の大学入学を祝ってキリンの絵のついたお皿を四枚買う。しかし学生にはもったいないから、成人してから渡すことにしよう。

 それにしても太郎のけちなこと。どこのレストランへ行っても、フカヒレ、伊勢海老、鮑は決して注文しない。だから一人前が二千円以下で済んでしまうことが多い。

 

三月二十八日

 帰国。

 

三月三十日

 一足遅れて帰国した太郎一家が上京。太一の東京暮らしの準備。夏休みに天山南路へ行かないかと誘ってくれる。予約した席はまず学部の学生、それから院生、それで余ったら「親父さんとお袋さん、来る?」という次第だ。私がサハラの経験でものを言うと、太郎は私の無知を呆れたように、

 「ここは昔からの通商路なのよ。だからキャラバン・サライがずっとあるんだよ」

 と言う。『週刊ポスト』六枚をざっと書く。

 

三月三十一日〜四月一日

 少し疲れて、家でごろごろ。まだ肩が凝っているので、再びマッサージをしてもらう。人間「かたくな」になっている時は、ろくなことがない。

 

四月二日

 午後、日本財団で来客。

 三時半から、職員に新年度の挨拶。

 四時から総理官邸で教育改革国民会議の最終会合。

四月三日

 十二時から日本財団で執行理事会。

 午後、来客五人。

 夜、NHKの河野逸人氏。昨年テレビ用のテキストとして作った『現代に生きる聖書』を本として出版するために、少し加筆した。その最終原稿を渡す。

 

四月四日

 大阪新聞二回分。

 夕方、ホテル海洋で、中国医学生と特別研究者の歓迎式典。

 ホテル海洋は日本財団が建てたものだが、今回そのうちの四室を障害者用に改築。これで修学旅行も車椅子の生徒を気楽に同行できる。高齢者のグループ旅行にもいいだろう。改装した部屋を見せてほしいと思ったのに、四室共ふさがっているという。嬉しい話だが、少しがっかり。

 

四月五日

 午前中、聖路加病院で胸部レントゲンを撮る。咳が止まないので、皆に肺ガンの末期か重度の結核かと思われているかもしれない。しかし検査の結果は「残念ながら」とドクターは笑われた。つまりアレルギーがあることは間違いないが、何でもないとのこと。これでもしかすると天山南路へ行けるかもしれない。

 今日も午後からホテル海洋へ。

 新年度のお金の使い途に関して記者会見。次に財団のお金を使って仕事をしてくださる方たちに、私が「本年度の愚痴話」と言っている女々しい内情報告の講演会。その後「春の交流会」である。もっとも旅費をさしあげられないので、ご招待者は、近間の方たちだけになっている。

 六時からNHKホールでフィレンツェ歌劇場の『トゥーランドット』を観る。指揮はズービン・メータ。すばらしくデモンストラティヴな舞台と衣装は(フィレンツェと中国が融合するとこうなるか、という感じである。だが、このプッチーニのオペラは、何度聴いても悲劇的であるはずの筋がほとんど私の心には染みない。それでも度々上演されるのは、音楽力と言うべきか。

 指揮者の若杉弘氏夫妻とお隣の席になった。往年のしゃれた慶応ボーイ風の若杉氏と、同じ音楽家の夫人との専門家同士の会話を少し羨ましく聞いていた。

 

四月六日

 朝八時半から日本財団で理事会・評議員会。

 その後、パスポート受領。昼御飯の時に、今年の「障害者の方たちとの旅行」(ポーランド、フランス、スペイン)をサポートしてくれる、全国モーターボート競走会連合会、交通エコロジーモビリティ財団、それと日本財団の関係者が集まって打ち合わせ会。盲人に一人で待っていてください、という時は必ず壁か柱に触れられる場所を選ぶ、というような実際的なお願いをした。男手が七人あって本当に助かる。

 午後、司法制度改革審議会。

 夕食に大れい子さん。

 

四月七日

 朝、羽田から福岡経由、韓国釜山へ。

 よく晴れて、連翹と桜が満開だった。

 今から二十三年前、日本財団の前会長・笹川良一氏が、慶州にナザレ園という、韓国人と結婚した日本婦人たちのための老人ホームを作った。その建物が古くなって、今回全面的に改築したのである。おばあさんたちの祖国はもう韓国だ。しかし望郷の念も強い。私たちとしては、日本人のおばあさんたちがお世話になりた韓国に、せめてお礼としてご迷惑をかけない老後を用意したいのである。

 そのオープニングの式に列席するため、釜山から車で約一時間半の慶州へ。途中初めて韓国に来た日本財団秘書課の依田弘美さんに仏国寺を見せたくて立ち寄った。石材による寺社建築の南限だという。若い人には、機会あるごとに見るべきものを見せて人間を作らねばならない。私などもそうやって誰かに育ててもらったのである。

 慶州は桜の花見の客でいっぱい。

 新しいナザレ園は、明るくてどこも輝いていて、まるでホテルかレストランのようだった。ここまでこぎつけたのは、金龍成理事長と宋美虎園長がいらっしゃったおかげである。見学者も各地から後を絶たないのだという。

 ホームは一部屋ごとに家具とカーテンの模様も色も違っていた。

「家というものは、一軒ごとに違うものでしょう」と宋美虎園長は言う。「おばあさんたちは、嬉しくて泣いたですよ。私も嬉しくて泣きました」

 

四月八日

 朝から開所式。というより「竣工礼拝」がチャペルで行われた。

 慶州市長の李原植氏がどうしても出席すると言って来てくださった。釜山総領事の堀泰三氏夫妻も……。まずテープカット。この鋏は料理鋏で、「そのまま持って帰って使ってください」と宋美虎園長は女性らしい優しさを見せる。韓国の私立の施設ではまだ珍しいという車椅子をそのまま載せられる車も日本財団が贈った。これをうまく使えば、慶州中の施設が少し楽になるだろう。

 式の中で、私が主の祈りを日本語で唱えた。韓国語と全く同じテンポで唱えられる。

 式が終わるとすぐ車で釜山に向かった。飛行機がいっぱいで、どうしても成田直行の席が取れなかったので開港したばかりの仁川経由になったのである。ゲートを移動するのにたっぷり一キロはある。動く歩道はあるのだが、全部ではないのである。空港の面積は、あまり大きくてはいけない、ということがそろそろわかりかけてもいい時だ。

 

四月九日

 『新潮45』十五枚は旅の途中でも止むなく書いていた。外で書くのはきざに見えて嫌なのだが仕方がない。

 昼、国立劇場で新派公演『婦系図』を観る。新派は最近、どれも胸を打つ。昔は真砂町の先生に「主税とは別れてくれ」と言われれば、どんなに恋しくても言いつけを守っている芸者お蔦のことも「当たり前の話なのに何を今さら」と思って感動しなかったのだ。しかし今では、そのような話の筋が新鮮で強烈な美学を持つようになった。皮肉なことだ。

 帰りにソニーの故盛田昭夫氏夫人の良子さんを訪問。すばらしい百花繚乱のお庭を楽しむ。五月に、鋏持参で花泥棒に入る約束。たいていの植物は、その頃なら簡単に挿し木ができるのである。軽食を頂いてから、エディタ・グルベローヴァを聴きに東京芸術劇場へ。今日は一日楽しいことばかり。

 

四月十日

 少し旅行の支度をする。寒いのが怖いので厚いヤッケを持って行くことにした。原稿は午前中、朝日「論壇」六枚。

 十一時に家を出て、昼食を挟んで執行理事会。その後、来客数人。

 五時から、神田三省堂で新潮社主催のサイン会。若くして白血病で亡くなった級友の最期に立ち会ったドクターも名乗ってくださった。人生のページの巻き戻しを感じる。

 会が済んでから売り場でバスケットを借り、あっという間に『パルムの僧院』など欲しい本を買い込む。もっとゆっくりしたい思いしきり。パルムは、生ハムとパルメザン・チーズで有名なイタリアのパルマのことであるのを知ったのは最近のこと。

 その後、青山で加賀料理の会食。

 

四月十一日

『小説NON』十二枚。『世界週報』三枚。

 夜、ホテル・ニューオータニで「皐月会」の講演会。そのまま朱門と落ち合ってやっと三戸浜へ行けた。

 

四月十二日

 花、花、花の庭になっている。ジャーマン・アイリスまで最初の花が咲いた。しかしまもなく障害者の方たちとの旅行に出るから、私はここ十八年間、春の花をまともに見たことがない。大阪新聞二回分。

 

四月十三日

 金曜日。午前中、『週刊ポスト』六枚を書き上げたところで、午後から不意のお客さまがこられる由。不意というのはすばらしい出会い。慌てて庭のほうれん草を摘んだ。バターいためにするためである。橙も今日のために一個木に残っていた。
 

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