|
日本はアフリカに関心を 「食糧の不足は人間の尊厳そのものを損なう」 ボーローグ博士が好んで口にするフレーズです。確かに、国民に三食を保証できれば、その国の抱える基本的問題の大方は解決できたといっていいでしょう。大戦後、独立したアフリカ諸国の指導者の多くは、都市政策優先に走り、農業を病弊させる一因となりました。 博士が「緑の革命」を成し遂げたインド、パキスタンは、逆路や鉄道といったインフラが比較的整っていました。博士自身、インフラの貧しいアフリカでうまくいくかどうか半信半疑でした。が、スキとクワだけの伝統的農業を少しレベルアップするだけで成果が上がったのです。 タンザニアのアルーシャ地方には、五十億円を投じたODAの稲作農場がありますが、わたしたちの資金は、アフリカ十二カ国で年間八億円にすぎません。 少ない賃金のなかから、わたしたちが特に力を入れたのが、カントリー・ディレクターの選抜と現地普及員の育成でした。各国に常駐し、農業指導から現地スタッフの雇用、政府との交渉事とすべてをこなします。現在活躍中の六人は、博士、カーターさん、私の三人が面接し選んだ人々。国籍はメキシコ、米国、ガーナ、セネガル、エチオピアなどさまざまです。 一方、普及員は農民に代金と引き換えに種子や肥料を配り、直接農業指導します。普及員のレベルアップのため、ガーナのケープコースト大学に専門学部を設置してあります。お金をとることについては、最初援助の専門家に笑われたものですが有料だからこそ農民も真剣になるのです。 八九年、ガーナ北部地域のとある部落の収穫祭にボーローグ博士と出席したおりのことです。五百人以上集まったことのない広場に三千人以上が円陣型に参集。みな、夜明けとともに徒歩で近郷から集まった農民でした。突然、一人の老人が人垣の輪を分けて近づいてきます。異様な出来事に広場はシーンと静まりました。「穀物が実り、孫が学校に行けるようになった。一言お礼が言いたい。わが家の宝物を贈呈する」と手渡されたのが、一枚の毛皮。何事かとかたずをのんでいた人々も事情を知るや、事態は一変。今度は鐘や太鼓うちならしての大騒ぎ。握手、握手の洪水に汗みどろになりながら、私の胸に熱くこみあげるものがありました。 日本はアフリカに植民地をもたなかった数少ない国です。旧宗主国でないことが、日本への期待を一層大きなものにしているのです。今こそ、アフリカに目を向けるときだと思います。
|
|
|
|