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脳死の状態からの、臓器提供は最近、ごく普通の人間的行為として定着して来たように見えて嬉しい。ドナーカードの制定は、あげたい人と受けたい人だけの間の移植が可能になったということで、すばらしい成功であった。あげたくない人から臓器を「取る」ようなことはしないで、「さしあげたい」と思う人からだけ受けることが大切である。 独断と偏見の強い作家として、私は新聞の扱いにも興味がある。一面に大きくそれを報じている新聞は、つまり「こんな損なことをする人がまた現れた」と言外に言っているように読めてしまうのである。 脳死からの臓器提供の記事は、今後、淡々と小さく、しかし密室化を防ぐために医学的データや経過は正確に、がいいだろう。 与える側も名前を出すことなど望んでいないのだ。むしろ静かに、悲しみと別れと納得の時間が欲しい。そこには人間の世界からの一切の報酬など求めない、一番純粋な動機がある。それは、私の好きなエルビス・プレスリーの歌にあるように、「神のみに知られた」もので、それで神が喜んでくれればそれで充分なのである。だから大きな見出しを見ると、ああこの新聞には神が存在していないのだなあ、と私は考えるのである。 四月十八日の朝日新聞に、一歳の男児が脳死になってから、十一カ月生きていた実例が紹介されていた。「心臓が止まる直前まで栄養が腸から吸収され、足に動きもみられた」という。しかし「入院三百四十八日に心臓が停止した。死因は多臓器不全。大脳などは液状化していた」という。 子供だから、たとえ回復は望めない脳死でも、十一カ月間毎日抱いていたい、と思う気持ちは強いだろう。私はまだ子供の脳死にも立ち合ったことがなく、実母や舅姑の死も老衰で、管は一本もつけない自宅での自然死だった。しかし親を病院で看取った人の多くが、「最後の(管をつけた)無理やりの一週間が余計だった、可哀想なことをした、と思います」と言う。楽に自然に見送ってやりたい、とおおかたの人が願うのだ。 子供の場合は又別で、一日でも長く生かしておきたい、と思うのか、それとも、かわいそうな状態で生かしておきたくない、と思うのか、私には何とも言えない。それはそれぞれの親の心の聖域だ。 肉体が生きることと、精神が生きることとは明らかに違う、と私は思う。脳の液化とは脳の腐敗ということだ。脳が腐敗した状態で私を生かしておくような残酷なことを、私の家族はしないでおいてくれるだろう。 すべての人が自分の愛するものの運命を必死で守ろうとする。その人が苦しまないように、尊厳を失わないように、その人の生前の希望と美意識を全うできるようにしようとする。だからすべての人の死が静かである方がいいように、脳死の報道の扱いも地味にしてあげたら、と願うばかりだ。
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