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著者: 曽野 綾子  
記事タイトル: お花見?美しいだけの存在ではない  
コラム名: 自分の顔相手の顔 133  
出版物名: 大阪新聞  
出版社名: 大阪新聞社  
発行日: 1998/04/06  
※この記事は、著者と大阪新聞社の許諾を得て転載したものです。
大阪新聞社に無断で複製、翻案、送信、頒布するなど大阪新聞社の著作権を侵害する一切の行為は禁止されています。  
   今年私は、珍しくゆっくりと桜を見た。毎年四月は障害者の方たちとイスラエルへ行くという慣例ができてからもう十五年目になるので、たとえ出発が桜の花の後でも、旅行前は忙しくてとても花見どころではないのである。今年は出発が少し遅いのと、私の今の勤め先が虎の門なので、芝の増上寺の近辺や日比谷や皇居のお堀端を始終通ることもあって、通勤の途次にお花見をする贅沢を味わえた。
 そういう時、いつも不思議な思いになる。私が若くないからだろうか。私は人工的、機械的、金属的な、ヘビメタ風の光景の中にいると、精神が酸欠状態になって、やたらに疲れるのである。しかしたとえば視界の中に一本の桜でもあるような光景の中にいると、酸素が溢れていて心の息遣いが楽になるような気さえする。人工的なものだけが集まった光景は無機的だが、桜が一本でも見えると有機的な気分になるのである。
 もう十六年くらい前のことだ。
 私は幾つかの病気のために視力が落ちて、手術を受けることになった。生まれつき強度の近視だったから、私の眼底は荒れていて、手術をしても果たして視力が回復するかどうかわからない、という危惧もあった。
 しかし私は、見えなくなって初めて周囲の優しさに感動した。私の札付きの眼を手術して下さろうという損な役回りを引き受けてくださるドクターにも申しわけなく感謝でいっぱいだった。私は手術が済んだら、その結果がよくても悪くても、せいいっぱいの努力をしてくださった大学病院に、いささかの寄付をしてほしい、と夫に頼んでいた。
 私は初め、眼科の検査機械の購入費の一部にでもなれば、と思ったのだが、大学当局はそれで何本かの桜を植えることを考えてくださったようである。
 大学や病院には、樹木や花は大切なものだと思っていたから、私はその配慮が嬉しかった。治る人にとっては、それは生命力に満ち満ちた祝福の光景になる。そして治癒する希望はなく死を待つ人にとっても、花を眺めることは、自分が過ごして来た何十年もの健康で幸福で愛された日々と、たとえ自分が死んでもずっと続いて行く命の脈脈とした継続を思わせる。
 すべての人がその時間の経過の中に組み込まれて、生き、そして死に絶えるのである。生は死を包含し、死は生を完成する。
 花は美しいだけの存在ではない。花も、自然も、人間の運命そのものを語り、その意味を教え悟らせる。子供たちの精神が荒れるのも、彼らの生活がファミコン漬けでメタリックになり、機械的になって、自然から哲学の生気を浴びるチャンスが稀薄になったからではないか、とさえ思える。
 その意味で桜を眺める意味は大きい。私も庭に三本の桜を植えたが、まだ若木で花も弱々しい。でも私が死んでも桜は咲くからそれでいいのである。
 



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