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親しい友人の、ご主人が急死された後、「羨ましい亡くなり方だ」という印象から、「覚悟ができる程度に病気してあげる方が、残された家族にとってはいいのね」とか、いろいろな言葉が出た。 優しい夫人は、「やはり最期にはおむつの世話をしてあげたかった」と涙を流された。看病の疲労から急に解放されると、お通夜の席で残された夫人が思わず居眠りをするような光景が、一番祝福された別離だ、という考え方も昔からあった。 私は卑怯に振るまって、夫に尽くすとも尽くさないとも言わなかった。すると「おむつの世話をしてあげたかった」という話を聞いた別の知人の一人が「私はやだ」と言ったので、皆笑いだしてしまった。 こう文字で書いてしまうと、いかにも冷たく聞こえるので困ってしまう。言葉には感情を伝える音声が必要なのに、それがないからほんと浅ましい表現にみえるのである。 この明るい性格の友達は、こういう危険な言葉を、わざとご主人に聞こえるところで言う。ところがこのご主人がまた度量のある人だから、女房が世間のもろもろのことに対して、いかなる感想を述べようと少しも気にしない。自分はほって置かれそうで不安になる、などという根性の狭い反応も示さない。 私の印象では、どうも「おむつの世話はやだ」という人も、「おむつの世語をしたい」という人も、同じくらい結果的には誠実に面倒を見るのである。どちらとも言わない私のような性格が、一番手を抜き、看護を放棄しそうな気もする。 つまり人間は言葉ではないのだ。その一人の全人的な感性が、家族や他者の幸福にどれだけどう対処するかの選択をする。そしてその人独特の常日頃からの表現法が、それを外部にどう伝えるかを決めるのである。 人を生かすには、自分も生かさなければならない。飛行機が緊急着陸をすることになり、酸素マスクが下りてきたら、幼い子供を連れている人はまず自分が酸素マスクをしてから、子供にマスクをつけさせることが指示されている。それはまず自分の意識が保たれなければ、幼児を脱出させる人がいない、という現実的な問題からものことを見ているからである。 三人の親たちと暮らしていた時、私たち夫婦はまず自分たちが平凡に生きることを目的にした。私たち夫婦が倒れたり、離婚したり、ヒステリックになったりすると、三人の親たちの行き場がなくなるからであった。 おむつを換えてあげたい、という思いも、長くなれば疲れて辛くなる。しかしせめて家族の最期には、そういう時期があって当然だ、という思いも自然である。 「おむつの世話はやだ」と言いながら、遂に世話をしてしまう人も私は好きなのである。やだ、やだ、と言いながら、人間はしなければならないことを心のどこかで承認している、おかしくて偉大な存在である。
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