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著者: 曽野 綾子  
記事タイトル: 独特の表現?“やだ やだ”と言いながら  
コラム名: 自分の顔相手の顔 291  
出版物名: 大阪新聞  
出版社名: 大阪新聞社  
発行日: 1999/11/30  
※この記事は、著者と大阪新聞社の許諾を得て転載したものです。
大阪新聞社に無断で複製、翻案、送信、頒布するなど大阪新聞社の著作権を侵害する一切の行為は禁止されています。  
   親しい友人の、ご主人が急死された後、「羨ましい亡くなり方だ」という印象から、「覚悟ができる程度に病気してあげる方が、残された家族にとってはいいのね」とか、いろいろな言葉が出た。
 優しい夫人は、「やはり最期にはおむつの世話をしてあげたかった」と涙を流された。看病の疲労から急に解放されると、お通夜の席で残された夫人が思わず居眠りをするような光景が、一番祝福された別離だ、という考え方も昔からあった。
 私は卑怯に振るまって、夫に尽くすとも尽くさないとも言わなかった。すると「おむつの世話をしてあげたかった」という話を聞いた別の知人の一人が「私はやだ」と言ったので、皆笑いだしてしまった。
 こう文字で書いてしまうと、いかにも冷たく聞こえるので困ってしまう。言葉には感情を伝える音声が必要なのに、それがないからほんと浅ましい表現にみえるのである。
 この明るい性格の友達は、こういう危険な言葉を、わざとご主人に聞こえるところで言う。ところがこのご主人がまた度量のある人だから、女房が世間のもろもろのことに対して、いかなる感想を述べようと少しも気にしない。自分はほって置かれそうで不安になる、などという根性の狭い反応も示さない。
 私の印象では、どうも「おむつの世話はやだ」という人も、「おむつの世語をしたい」という人も、同じくらい結果的には誠実に面倒を見るのである。どちらとも言わない私のような性格が、一番手を抜き、看護を放棄しそうな気もする。
 つまり人間は言葉ではないのだ。その一人の全人的な感性が、家族や他者の幸福にどれだけどう対処するかの選択をする。そしてその人独特の常日頃からの表現法が、それを外部にどう伝えるかを決めるのである。
 人を生かすには、自分も生かさなければならない。飛行機が緊急着陸をすることになり、酸素マスクが下りてきたら、幼い子供を連れている人はまず自分が酸素マスクをしてから、子供にマスクをつけさせることが指示されている。それはまず自分の意識が保たれなければ、幼児を脱出させる人がいない、という現実的な問題からものことを見ているからである。
 三人の親たちと暮らしていた時、私たち夫婦はまず自分たちが平凡に生きることを目的にした。私たち夫婦が倒れたり、離婚したり、ヒステリックになったりすると、三人の親たちの行き場がなくなるからであった。
 おむつを換えてあげたい、という思いも、長くなれば疲れて辛くなる。しかしせめて家族の最期には、そういう時期があって当然だ、という思いも自然である。
 「おむつの世話はやだ」と言いながら、遂に世話をしてしまう人も私は好きなのである。やだ、やだ、と言いながら、人間はしなければならないことを心のどこかで承認している、おかしくて偉大な存在である。
 



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