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日本が“鉄の意志”を学ぶとき サッチャー元英国首相にお会いしたときは、保守党が惨敗し、ブレア党首率いる労働党が十七年ぶりに政権党に返り咲いたときでもありました。私はサッチャーイズムが英国病からよみがえらせたにもかかわらず、なぜ国民が労働党を選択したのかを聞きました。 「皮肉にもわれわれが労働党にかれらの時代遅れを教えてしまったのです。かれらは保守党の主張の正しさを学んだ結果です。しかし、労働党の本音は変わっていません。必ず増税や無駄遣い、そして大きな政府を言いだしますよ」 一見、淡々と話してはいましたが、「政治の要諦は選挙に勝って勝って勝ち続けることです」と自分自身に言い聞かせるように話す姿に無念のほどがうかがえました。そして、突然独り語りが始まりました。 「中央銀行機能をEUにゆだねることには絶対反対です。国々はおのおの独自の歴史と文化を有します。通貨統合は英国の存在を否定するものです」。私との会談の前日、彼女はブレア首相と長時間会談していました。恐らくは、その際の意見不一致を思い出しての怒りの爆発だったのでしょう。 ところで、私がサッチャーさんの名前を鮮明に印象づけられたのはフォークランド島へのアルゼンチン軍の奇襲侵攻の折でした。このニュースが飛び込んできたとき、私は日本財団でヒース元英国首相と昼食をとっていました。ヒースさんは悠然と「英国は彼女が首相であるかぎり、明確な態度をとるだろう。さあ、勝利に乾杯」と杯をあげたものです。とはいえ、彼女にとってフォークランド紛争は厳しい試練でした。 私がサッチャーさんに初めてお会いしたのは八四年六月、父・笹川良一に随伴しダウニング街十番地の首相官邸の夕食会に招かれたときでした。食後、彼女はわれわれを閣議室に招き入れ、首相席に父を座らせました。そして問わず語りに「フォークランド紛争の際、私は一人このイスに長時間座り、一万五千キロの大遠征を決断しました」と宰相の孤独な決断の厳しさを話していました。当時、英国病まん延の中、炭坑スト対策に頭を痛めていた彼女は、世界経済に触れ、日本の独り勝ちに不満を漏らしました。私は「大英帝国の歴史を見ても栄枯盛衰は世の常。日本の繁栄もたかだか十五年程度のもの。長く続くとは思えません」ととっさに応じたものです。 あれから十三年後の今日、日本のあらゆる戦後システムが金属疲労を起こしています。進路定まらぬ日本の姿を見るにつけ、今ほど「鉄の意志を持った宰相」の出現を望むときはありません。規制緩和、行政改革など日本がサッチャーイズムから学ぶべきことは多々あるはずです。
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