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著者: 曽野 綾子  
記事タイトル: 私の罪?ナイフと鍵に立ち向かうには  
コラム名: 自分の顔相手の顔 357  
出版物名: 大阪新聞  
出版社名: 大阪新聞社  
発行日: 2000/08/01  
※この記事は、著者と大阪新聞社の許諾を得て転載したものです。
大阪新聞社に無断で複製、翻案、送信、頒布するなど大阪新聞社の著作権を侵害する一切の行為は禁止されています。  
   先日、或る外国の町で、若い日本人の女性観光客の話が出た。その町で仕事をしている私の知人の日本人は、よく見知らぬ日本人女性の身の上相談に乗るはめになるという。
 女性が遭遇する被害の典型は、町中で親しげに話かけて来る土地の男にレイプされるケースである。日本に行った時、日本人によくしてもらった。日本、大好き。その時のお礼をしたい。ごちそうしたい、と言うのだそうだ。
 すると日本人の女性たちは、いとも簡単について行くのだそうだ。どこか安いところでごちそうしてくれる場合もあるが、たいていは自分の家なる場所に連れて行く。そしてそこで突然態度が豹変して乱暴に及ぶ。
 ほとんどすべての女性たちが泣き寝入りをするのだが、そのうちの少数が腹を立ててその人のオフィスに何とかしてくださいと訴えに来る。しかしそんな苦情をこちらの都合のいいように土地の警察が素早く処理してくれるわけがない。どうして見知らぬ男を信用してついて行ったのだ、というのが世界的な常識である。すると娘たちは、友達と二人だから大丈夫だと思った、などと言うのだそうだ。
 西欧の社会は、ナイフと鍵が常識の世界だ。鍵がなくて済むなどと昔も今も考えたこともなければ、ナイフを持ち歩くのを禁止しようなどという話が出るはずもない社会である。友達と二人連れであろうが、鍵とナイフにどうして立ち向かうのか。
 日本人は国内の穏やかな社会に馴れて、人を疑うのは悪いことだ、などと、いい年の大人までが考えている。だから国防を考えることもなければ、外交力によって言うべきことは言い、常に相手との力の均衡も保つだけの度胸と駆け引きもない。さらには相手を徳の力で屈伏させるだけの個人的な誠実もない。
 人を疑う力がなければ、人を信じることもほんとうにはできない、と私はいつも書いて来たが、昔私の子供のころ、カトリック教会では、ラテン語でミサを唱えていた。九十五パーセントは何を言っているのかわからなかったが、中に一カ所「メア・クルパ」という言葉を三回唱えるところがあった。その呪文のような言葉の意味を或る日私は尋ね、それは「私の罪」ということだと教えられた。ミサの中のその祈りの場所で、私たちは「おお、我が罪よ」と各人が無言のうちに、自分の醜さを認め、自分を責めたのである。
 人を疑い続けた後に、相手が悪人ではないと知った時こそ、人は心からそう唱えただろう。こんなことを言うと日本人は、「じゃ人を疑わずにいれば、罪人にもならないで済むじゃないですか」などと幼稚なことを言う。
 人を疑わないで、殺されても、財産を奪われても、国を取られても文句を言わないならそれでいい。しかし世界的にそれは愚か者のすることだとなっている。自分で自分をできるだけ穏やかな方法で防衛することが人間の義務だとすれば、やはり人を疑って、後で「私の罪」として処理するほかはないのである。
 



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