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著者: 曽野 綾子  
記事タイトル: 日の丸・君が代?どんなことにも反対は必ずある  
コラム名: 自分の顔相手の顔 221  
出版物名: 大阪新聞  
出版社名: 大阪新聞社  
発行日: 1999/03/09  
※この記事は、著者と大阪新聞社の許諾を得て転載したものです。
大阪新聞社に無断で複製、翻案、送信、頒布するなど大阪新聞社の著作権を侵害する一切の行為は禁止されています。  
   「君が代」法制化に関する意見が三月二日付けの朝日新聞(東京本社発行分)に出ていて大変おもしろかった。
 まず「校長が昨年、卒業式を強制しようとして生徒が反発した埼玉県立所沢高校の生徒弁護団の津田玄児弁護士」の意見はこうである。
 「思想信条の問題として考えたい。日の丸・君が代が嫌だという気持ちの生徒が一人でもいれば、強制するべきではない」
 この科白(せりふ)は中年以上の人ならどこかで似たような言葉を聞いたことがあると思うだろう。美濃部亮吉・元東京都知事が「一人でも反対があったら橋を架けない」と言って非常な人気を博したのと、全く同じ表現である。
 この美濃部氏の言葉はフランツ・ファノンの著作から引用したとされているが、原文のニュアンスは全く違う。美濃部氏が作為(さくい)的に意味を取り違えて使ったとしか思えない。ファノンは次のように言ったのだ。
 「ひとつの橋の建設が、もしそこに働く人びとの意識を豊かにしないものならば、橋は建設されぬがよい。市民は従前どおり、泳ぐか渡し船に乗るかして、川を渡っていればよい。橋は、空から降って湧くものであってはならない。社会の全景にデウス・エクス・マキーナによって押しつけられるものであってはならない。そうでなくて、市民の筋肉と頭脳とから生まれるべきものだ。なるほどおそらくは技師や建築家が必要になるだろう??それもときには一人残らず外国人であるかもしれない。だがその場合も党の地区委員がそこにいて、市民の砂漠のごとき頭脳のなかに技術が浸透し、この橋が細部においても全体としても市民によって考えなおされ、計画され、引き受けられるようにすべきなのだ。市民は橋をわがものにせねばならない」
 つまりファノンは、アフリカの人々が橋一つでも安易に外国人に作ってもらってそれをただ使うようなら、橋など架けず、今まで通り泳ぐか渡し船を使えと言っているのである。市民自身が、橋を架ける時には肉体か頭脳で参画すべきだというのが彼の論旨である。
 津田弁護士が言うように、一人の反対が全体を中止させるようなら、それは民主主義ではなく、専制政治の形態である。民主主義は五十一パーセントの賛成のかげに、四十九パーセントが「泣きを見る」こともある。ただし次の選挙の時にその情勢を逆転させるべく頑張ることが可能とされている。
 どんな制度でもそれを嫌がる生徒は必ずいる。昔からクラスで何人かは必ず運動会嫌いだった。しかし大多数の生徒は運動会が楽しみで、中には嬉しくて前の晩眠れないほどのもいたから、運動会は行われたのである。その結果どうしても嫌な生徒は知恵を働かせて仮病を使って学校を休んだ。真剣に遊戯もせず走りもしないでお茶を濁した生徒も何人かいた。自分の嫌なことをどう拒否し、耐えるか攻撃するかを学ぶのも、人生の勉強の課題だと思うが、一人の反対を弱者保護の論理にすり替えて使うのは、民主主義を騙(かた)った専制政治の特徴である。
 



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