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十二月八日付けの東京新聞の社説に「報道に関する偏見を捨てよ」と題して、新聞界、通信社がこの十四日に人権擁護推進審議会の求めに応じて「報道と人権の関係について意見を述べる」ことが書いてある。 「ところで法務省の担当者は意見陳述の要請にあたって、審議会が行政命令による記事差し止めも視野に入れて検討していることを表明した。 憲法二一条はあらゆる表現の自由を保障し、検閲を禁じている。行政命令による記事差し止めは明白な憲法違反だ」 こういう記事を書く論説委員は大記者のお一人だろうが、私からみれば年齢が若いのだから、過去のことをご存じなくても当然だと思う。しかしこういう東京新聞が、今から二十年くらい前だろうか、私が署名入りで書いた記事を差し止めたのである。 それは私が一生忘れられない事件だ。私は別に殺人や放火を勧めるような記事を書いたのではない。今と同じで、中国は二つの中国を全く認めなかった。私は、中国が一つになるか、二つになるかどうかは、民族自決の原則に従って、当事者が決めることだ、と書いたのである。 当時中国は日本の新聞に外圧をかけ、いささかでも中国批判の記事を書く新聞社はことごとく北京から追い払った。日本の新聞は産経新聞以外、中国の顔色をうかがっていいなりになる政策を取ったために、中国は日本に対して、明らかにフランスなどに対するのとは違う態度を示した。中国は日本人をなめ、日本の新聞は中国の、ごきげんを取ろうとして、自ら中国に関する記事の検閲を始めたのである。私の東京新聞の囲み欄の記事は、一刷りだけ刷って輪転機から引きずり下ろされた。 それから長い時間が経ったが、本質はあまり変わっていない。近年では、『サンデー毎日』が、私が「東京では被差別部落の問題は極めて稀薄である。私自身は生涯に全く一度もそのことで、周囲が誰かを差別したり悪口を言ったりしているのを聞いたことがない」と書いただけで、その原稿を載せることを許さなかった。書き換えを命じられても、私は自分の体験を変えるわけにはいかない。 最近、角岡伸彦さんという方が書かれた『被差別部落の青春』という本が出た。中にごく例外だろうが、部落の意識など全く持たない世代が出て来たことが書かれているという。どこでも、過去のしがらみから抜け出した新しい世代は出て来ているのだ。 決して東京新聞ばかりではなく、戦後のマスコミは、「あらゆる表現の自由を保障」したりはしなかったのだ。その体験が、私の戦後の歴史の大きなテーマであった。 考えてみれば、過去に誰かがやった悪いことを自分なら決して犯さないと思うのが新聞と人道主義者で、過去に誰かがやったことなら私も多分同じ間違いを犯すだろうな、と恐れるのが作家というものなのかもしれない。
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