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著者: 曽野 綾子  
記事タイトル: 我らの罪を許し給え  
コラム名: 昼寝するお化け 第145回  
出版物名: 週刊ポスト  
出版社名: 小学館  
発行日: 1997/12/19  
※この記事は、著者と小学館の許諾を得て転載したものです。
小学館に無断で複製、翻案、送信、頒布するなど小学館の著作権を侵害する一切の行為は禁止されています。  
   一九九四年に行われたルワンダ虐殺は、日本でも確かに報道されたのだが、その数が国連の調査で五十万人とも百万人とも言われる割には、その恐ろしさが深く国民の間で認識されていない。
 そもそも、ルワンダがどこにあるかさえ、多くの日本人は(私をも含めて)明らかに認識していない。アフリカの有名なヴィクトリア湖には面していないが、その少し西側に位置する、四国の約一・四倍ほどの国である。私が与えられた資料によると、一九九五年の調べで人口は六百四十万人。フツ族が九十パーセント、ツチ族が九パーセント、トゥワ族が一パーセント、という配分である。
 今度初めて私はこのルワンダに入った。日本のアジア医師連絡協議会(AMDA)がここに基地をもっており、私が働いている日本財団も、私が個人的にやって来た海外邦人宣教者活動援助後援会(JOMAS)も共にAMDAを支援して来たので、その仕事の一部を見るためであった。
 なぜルワンダの虐殺がそれほど日本人に警告的な意識を残さなかったかと言うと、新聞の似非人道主義の結果が大きい。私は決して猟奇的な興味を引きかねない殺人や虐殺の現場を、ことさらに報道せよ、というわけではない。しかし現に或る日本の新聞社では、ルワンダの虐殺の凄惨な現場写真を送った特派員が、本社で「何か他の写真はないか」と言われたという。読者から「こんなひどい写真を載せて、子供の教育に悪い」などと言われるのが怖さに、最近では真実の惨劇さえ写真掲載を敬遠する。日本人は、今や悪に触れなければいい、という小児的な思い込みから抜けられない。まともな大人は悪を深く知ってこそ、善への道を模索する。かくして日本人は持つべき認識を遠ざけられ、国際的無知を背負わされる。
 写真とはいい言葉で、時々「写真」を「社虚」(社をあげての嘘)にする新聞社やカメラマンがいないではないが、たいていの場合、写真はあるがままにしか写らない。それ故に記事は信用できなくても、写真は真実をそのまま伝える場合が多い。
 私は今度現場に来るまで。その実態を想像することができなかった。この惨劇が起こる背景を細かく伝えていると、長い紙数を必要とするが、一九六二年にベルギーからの独立を果たした後も、この二つの部族抗争は跡を絶たなかった。歴史的に言えば(今はもうこのような分類は、ルワンダでは成り立ちえないと言うが)フツは農民で定住して畑を作る。そこに牧畜民であるツチが牛や他の家畜を引き連れて移動して来るのだから、畑の作物は家畜に食べられ、踏み荒らされる。牛に「他人さまの土地の青物を食べてはいけないよ」と言い聞かすわけには行かない。この手の基本的な矛盾は誰にも長い間解決できなかったのである。
 一九七三年にフツ族出身のハビヤリマナ大統領が軍事クーデターで大統領の座に就く。一方、独立前後から隣国ウガンダで結集していたツチ族主体の勢力が、「ルワンダ愛国戦線(RPF)」を作り、一九九〇年からルワンダヘの侵攻を開始した。この内戦は一時期包括和平協定を作るまでにいたったが、一九九四年四月、ハビヤリマナ大統領の搭乗機が撃墜されて、大統領が死亡したのをきっかけに、政府側の民兵組織が、少数派のツチ族と、フツ族の中で「融和派」といわれる人々の虐殺を始めたのである。
 私たちは調査の一日を首都キガリの南東約五十キロのところにあるニャマタ教会と、そこから西へ約十五キロの地点にあるヌタマラ教会の虐殺現場に行くことにした。「千の丘」という意味を示すルワンダは丘が多い。緑も豊かで、サツマイモの畑やパナナの生えた斜面が続いている。今はこの国も穏やかに見えるが、三人の小銃を持った兵士が先頭の白い乗用車に乗って護衛についている。
 教会の庭にビニール・シートを掛けたコンクリートの地下構造物が二個所あった。村民の一人かと思われる男がそのシートをめくると中央の部分に階段が現れた。
 私の視野の中に三段の棚に並べられた頭蓋骨の列が見えたのと、まだ少しも衰えていない臭気が私たちを迎えるように吹き出して来たのとは同時だった。その臭気は今や死者たちが発することのできる唯一の言葉であり、彼らは訪れて来る人に、自分の運命を語りたがっているように思われた。
 それらの頭蓋骨は、明らかに人の顔が違うのと同じように眼窩の位置や鼻の窪みの場所が違うことで、一つの表情を持っていた。眼窩には土が詰まっていて、そこに植物の干からびた痕跡が見えるものもあったし、頭蓋骨自体が傷を受けているものもあった。凶器は、草刈り鎌、先端が曲がった爪をつけた一種のこん棒、槍などだと記録には記されている。

 夜空の星座のような銃弾の跡
 ばらばらになった手足の骨は、一部は茶ばみ、一部は黒ずみ、棚の下段に薪が散らばるように積んであった。頭蓋骨の中には、一本も欠けていない見事な歯並びを残しているのもいた。歯科医師もいず、三十歳までに子供の六、七人も生めば、前歯は数本を残すだけになるという田舎の生活もあることを思えば、これからの死者たちはどれほど若かったのか容易に想像できた。
 教会の廃墟に続いた納骨室には一体の母子のミイラがあった。乳を飲ませながら、赤ん坊を庇って死んだという姿勢で、両足は大きく開かれている。赤ん坊は母の腕の中で永遠に抱かれるために、二人の遺体は融け合って一つの彫像になっていた。
 ここで、約二万人が殺されたというフツ族とツチ族は、外見も名前のつけ方もほとんど違わないという。今では職業の区別さえないが、誰がどちらの種族かは、土地の人なら知っている。殺すべき相手はそれで選別されたのだろう。
 そこからヌタマラ教会の虐殺現場へ廻った。教会なら敵対勢力も残酷なことはしないだろう、と思った人々は、教会の中で集まって暮らしていた。しかし神は常に現世で報いることはしなかった。
 中は惨劇の時のままの状態を保っていた。低い木の祈祷台の間に、古いマットレス、空き缶、縞の買い物袋、水の缶、衣服などが散乱し、その間に頭蓋骨や長い手足の骨が散乱していた。天井はトタンだったが、そこに夜空の星座のように銃弾の跡があった。
 唯一神から教えられたとされる「主の祈り」はその中で「我らの罪を許したまえ」と祈る。普段私は、この言葉をやや機械的に唱えていた。しかし神はルワンダにおける人間の愚行を予期してこの祈りを作ったとしか思えないほどだった。私が祈りの途中で、この言葉の部分で絶句したのは、これが初めてであった。
 



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